見出し画像

良心とは「良いこころ」ではなくてうしろめたさのこと

昨日の記事では、「ぼくはイラつきやすくて、小さい人間だ」ということ書いたんだけど、そこをもうちょっと深めてみたい。

今日のお題は、「人間とはなにか」である。いきなり話がデカくなるのだ。昨日ちょっとしたことで腹を立てていたチンケなぼくが、いきなり「人間とは?」を語ってしまう(笑)。

さて、そんなチンケなぼくにとって、人間とは、すなわちホモサピエンスとは、

無限にまちがいをくり返し、無限に修正を続けることのできる生き物

である。

じっさい、昨日の記事を書いてからは、同じパターンでイラつきそうになると、

ちょっと待てよ。これはイラつくほどのことなのか?

と自問するようになった。そうやって行動を修正している自分を

人間的でイケてるな~

などと思ったりもしている(笑)。

いいかえれば、ぼくが好きな人というのは、まちがえない人ではなくて、まちがいを認めて、それを修正する勇気のある人だ。

たとえば、昨日の病院では、もうひとつ印象的な出来事があった。

その個人病院には待合室が2か所あって、1階の受付前に1か所と、2階の診察室の横にもう1か所だ。

1階のほうはベンチが受付を向いて並んでいるだけだから、黙って座っていれば済むんだけど、2Fにあがって診察を待つあいだはせまい「コの字」型のベンチに座らなければならない。とうぜん、患者同士が向き合う感じになる。

ぼくはいつも

こんちわ~

とか

失礼しまっす

などと言って座る。相手もそれに「どうも~」などと返してくる。フツーですよね。それ以上しゃべったりはしないけど、あいさつしないでだまって向き合うのはなんかヘンだし、居心地が悪い。

こないだも書いたけど(「ウソのない別れの言葉」)、あいさつってのは「相手の存在を認めてるよ」という合図である。だからこそ、あえて無視することがいじめになったりするわけですよ。存在を無視される以上につらいことはない。

このnoteだって、毎日、閲覧者数が「ゼロ人」だったらさすがにぼくも心が折れているだろう。秋葉原で刃物をふりまわすことはなくても、もうちょっと控えめにあばれているかもしれない。しかし、少しでも読んでくれている人がいると思うので、こうして機嫌よく書いているわけですよ。ありがとね~。

さて、日本には割と「不自然にシャイ」な人が多いみたいで、「こんちわ~」の一言を倹約しようとする人がたまにいる。

そういう人はその医院の「コの字型」ベンチにすわるときには、からだを廊下のほうにそっぽ向けるようにして座る。

わたしは関係ありません

というボディーランゲージである。

昨日もそういう女性がいた。40代だろう。いい大人である。子どももいるかもしれない。そんな大の大人が「こんちわ~」ひとつ言えない。

そこで「日本は共同体として終わっているな」と思うのもアリだけど、でもぼくはその人の中にも良心というのがあると思っている。「こんちわ~」で済むところをそっぽ向いたら、こっちも気分はよくないけど、本人だってけっして気分はよくない。

ところで、「良心」って書くとまるで「良い心」みたいに誤解してしまうが、ぼくの考える良心とは

うしろめたさ

のことである。

正しいことをするのが良心なのではなく、うそをつかないのが良心なのでもない。弱っている人を見て見ぬふりをしたり、うそをついてしまったあとに感じる「うしろめたくて気持ちの悪い感じ」こそが良心だと思う。

そして、そういう「うしろめたさ」はほとんどのホモサピエンスに備わっている。たまーに「人が苦しんでいる姿を見るのが人生のよろこび」という悪魔みたいなタイプもいるらしいけど、ふつうはうしろめたい。

ただし、そのうしろめたさをみとめてその後の行動を修正する人と、うしろめたさにフタをして、鈍感に生きつづける人がいるだけである。

あのそっぽ向いた女の人も一生あのままかもしれないけど、きもちわるさにがまんできなくなって、思い切って前をむくかもしれない。その姿を見たら「いいなあ」と思うことだろう。

ぼくは、そうやって修正する人が好きだし、修正する瞬間を見るのが好きである。まちがいを犯さない人ではなくて、まちがいを修正する勇気を見せてくれる人が好きなのだ。

ホモサピエンスがこの惑星の上にあと何百年、何千年、あるいは何万年存在し続けるのか知らないけど、そのあいだじゅう、無数のまちがいを繰り返すはずだ。でもそのたびに、うしろめたさを感じ、勇気のある人から順に修正していくことだろう。

「完成形」だとか、「最終的な正解」などというものはどこにも存在しない。ホモサピエンスはこれから先も際限なくまちがいをおかし、そのたびにうしろめたさを感じ、際限なくそれを修正しつづける。

それがぼくの考える人間らしさである。

どんな宗教であろうと「最終的な正解」を用意することなどできない。でも、もちろん宗教にひっかかるのも人間だ。

その宗教の「うしろめたさ」に耐えられなくなったら、思い切って修正すればいいだけであり、それこそ人間的ですてきなのだ。

覚せい剤を打たない人がエライんじゃなく、やめようとのたうち回っている人がエライのよ!

ぼくだって、毎日まちがいをおかし、毎日うしろろめたさを感じ、いやになるほど修正をくりかえしている。そして、しょっちゅうまちがいを犯す人が好きであり、そのたびに修正し、変化を続けている人が好きなんです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?