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旅とは「去る」ことではないか

漂泊の思い

『奥の細道』の中で、たしか芭蕉は「漂泊の思ひやまず」と言っていたはずだ。現代語に訳せば「旅に出たい気持ちをおさえらえない」という意味だろう。

旅に出たい気持ちを抑えられない人は現代にもたくさんいるにちがいない。そういう人は芭蕉の気持ちがしっくりくるのかもしれないのだが、ぼくはまったくわからない。それどころか今けっこう迷惑している。

旅の好きな人に迷惑しているのではなく、やむをえず2拠点生活を強いられている現状があわただしく、腰を落ち着けることができないことに閉口している。なので、旅に出たい気持ちをおさえられないという気持ちを理解できない。

旅と言っても小旅行くらいなら楽しさはわかるし、2泊3日くらいなら気分転換になって楽しいのはわかるのだが、芭蕉の言う

漂泊

というのはそれとはちょっとニュアンスが違うと思うのだ。「泊まる場所が漂う」のが漂泊である。

ふつうの旅は、帰ることのできる家がしっかりとあって、そのうえでどこかへ出かけるのだが、漂泊というのは、旅暮らしなので本拠地がしっかりしておらず、ややホームレスに近い。

芭蕉の漂泊は、『男はつらいよ』の車寅次郎のような旅暮らしだと思う。寅さんも一つの場所におちつくことができず、日本中をあてどなく旅しをしているわけだから、漂泊の思いがやまないタイプだろう。

しかし、拠点を持たない旅暮らしというのはツラいものである。毎日、その日のねぐらの心配をしなければならないし、とにかく「落ち着ける」場所がない。

しかし、寅次郎を見ていると、その「おちつく」ということがそもそもできない人なのだ。毎日おなじ時間に起きて、おなじ道を通って、同じ勤め先に出かけ、同じ仕事をして、地道に生きるということがそもそもできない。

気まぐれにどこかへ行ってしまうので、周りの人たちは彼にふりまわされるし、だから社会に受け入れられない。寅次郎は、次々に問題を起こしてしまう自分を抑えられないので、しかたなく旅に出ているように見える。そういう「おちつけない人」の辛さを感じる。

そうかんがえてみると「漂泊の思い」とは、いわゆる旅行とは全然別のものだと思えてくる。

日ごろ地道にやっているまともな社会人が、たまにどこか良さげな場所へ出かけて、たとえば湯布院とかウィーンとかそういう「イイ場所へ出かけて羽を伸ばしたい」というのが旅行だ。

一方で、社会にうまくなじめず、すぐに問題を起こしてしまう人が、「とりあえずどこかへ」去っていくのが漂泊なのだろう。楽しい場所へでかけるのではなく、いたたまれなくて去っていくのだ。

芭蕉もそうだったのではないか。おそらくちょっとフラフラした人で、江戸の町で地道にやっていくことにたえられず、漂泊の思いがやまなかったのではないだろうか。

旅から旅の暮らしはツラいに決まっているのだが、漂泊の思いがやまない「おちつけない人」人にとっては、おちつくことのほうが、旅以上に耐えがたいので、しかたなく旅路をたどる・・そういう感じに思えてきた。

増えている2拠点生活

なんでこんなことを考えるかというと、上に書いたように、ぼく自身が今「2拠点生活」っぽくなってしまっていて、めんどくさいからだ。2拠点生活といったって、別荘みたいなイイものではなくて、我が家と実家の往復である。

いまぼくらの年代にこういう人は多い。若い頃に実家を出て都会へ出て、都会で根を張っていたにもかかわらず。親の事情や、荒れ放題の実家にやむをえず2拠点生活をやっている日本人が多い。

こういう2拠点生活者は。高度成長期におきた日本の都市化と核家族化の後始末をやっているだけで漂泊の思いなどないのだが、1つの場所に腰を落ち着けることができないという意味でやむをえず「漂泊」に追いやられており、なかなか悩ましい。

タレントの松本明子さんが実家じまいをした話が本になって話題になっていたけど、かなり大変だったと聞く。ぼくと2歳違いなので、まあ、そういうめぐりあわせになっているのだろう。

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