伝わらないときは言いつのらない
昨晩、ひさしぶりに「混雑している居酒屋」に行った。ひさしぶりというより、ひっっっっっさしぶりである。
ぼくが、ごった返している居酒屋に立ち入らなくなったのは2020年からで、もちろん「例のアレ」があったからだ。2019年を最後に、ごった返している飲み屋には入っていない。
昨晩行ったのははじめての店なんだけど、2019年までよく行っていた池袋の「24時間居酒屋 大都会」と似た雰囲気の店だった。
店内は焼き鳥とタバコの煙がモウモウと上がり、客は満員。酔いが回ってくるとみんな声が大きくなるので、耳を近づけないととなりの人の言葉が聞こえないのでさらに大声を出す。
すると、横のテーブルがさらに大きな声で話し出しはじめて、こちらも負けじと声を大きくする。これの繰り返しで、気づけば客全員が叫びながら飲んでいた。今でものどが痛い。
ひさしぶりにこういう場所に行けるようになったのは、最近、「恐怖の大王」がややおとなしくなってきたからだ。やっかいな亜種が広がれば、また行けなくなるかもしれないけど、たのしいひとときだった。
そのときは真意に気づけないことが多い
こうして叫びながら会話をしていてあらためて思ったのだが、人ってわりと深いことをさりげない言葉で語る。そして、聞いているほうは、その当座は真意に気づけなかったり、理解できなかったり、意見がちがったりするんだけど、あとあと考えてみると
と腑に落ちるみたいなことは多い・・・。なんだか当たり前のことを言っている気がするので、もうすこし詳しく説明してみよう。ちょっと極端な例を挙げてみよう。
極端な例
たとえば、世の中には自ら命を絶ってしまう人がいるが、「その直前」に出会った人が、あとあと考えてみれば意味深なことを言われていたことに気づいたりすることがあるでしょう。
突然死する場合なども、まるで死期を悟っていたかのようなな言葉を残している人がいる。こういう言葉ってあとでふりかえるといろんな深い意味が含まれているような気がしてくるんだけど、まさか相手が死ぬと思っていないので
くらいにしか思わなくて、そして、あとでいろいろ気づかされるのである。そして、こういうことは生き死にかかわらず「日常でもしょっちゅうある」ということを言いたい。
相手はいろんな思いをこめて「一言」をしぼりだしているのだろうが、聞き手としては
としか思わず、何か月も何年もたってから「ああ・・あのときはこういう思いで言ったんじゃないだろうか」などと気づたりする。
自分の例
たとえば、故郷に帰って友だちと会っていた時の話なんだけど、いきなり
みたいなことをとつぜん言われたことがあるのだ。そのときは「四国から出るってそんなおおげさなことかな?」くらいに思っただけで、
と受け流していた。でも1年以上たった今になって、彼の人生全般を振り返って考えてみると、いろんな思いがこもってああいうことばが出てきたのだなあとわかるし、いまなら深い質問を返せそうな気がするのだが、あのときはスルーしてしまった。
こういうことは日頃の会話の流れの中でしょっちゅうあって、ぼくの感じでは、1回の会話で1つはあると言ってもいいだろう。そして逆のばあいもよくあり、こちらがいろんな思いを込めて言った言葉が軽くいなされ
と思うこともけっこうある。
言いつのってもダメ
会話というのは、こういうことの連続で、表向きはわかりあっているようでも、深い所ではすれ違っていることも多い。ただし、付き合いが長くなれば、あとあと
と思うことがよくあるし、思ってもらえることもある。
ぼく自身は「真意が伝わってない」と感じると、その場で言いつのってしまうほうなのだけど、「あまり熱くなっても仕方がない」と最近は思うようにしている。これが今日言いたいことだ。
相手にわからせようと詰め寄っても雰囲気が悪くなってしまうだけだし、逆につめよられた場合は、
と感じて、受け流してしまうだけだ。それよりも、待っていればいずれ
と相手が思ってくれるときがくることが多い。なので、自戒を込めて言うけど、「伝わっていない」と感じた時には言いつのるよりは、時を待つほうがいい。
人はあなたを見ているので、むりに伝えようとしなくても、立ち居ふるまいや、日ごろの言動に説得力があれば、いずれ、いいタイミングで、伝わるべきことは伝わるだろう。自分がそうやって時間差で相手のことを理解しているので、きっと相手もそうなのだろうと思うようにしている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?