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すべての文章はきれいごと

強度のアニメオタクの人たちは、3次元の異性に興味を抱かず、2次元のキャラクターに恋をするそうだ。このことについては、まえまえから不思議に思っていたし、いまでもよくわからない。

しかし、実は、ほんの少しわかるような気がしないでもないと思うこともあり、アニメのことはわからないが、小説やマンガについてややならわかる。

小説やマンガに描かれている世界は、たとえ「現実を忠実に描写している」と評されているものですら、現実よりはやや清潔で、現実よりはややおもしろおかしく、現実よりはやや美しい。これはすべての小説やマンガにあてはまることであり、、例外はない。

やや美化された刑務生活

たとえば、花輪和一の『刑務所の中』というマンガがある。あれは刑務所の中のことをかなりリアルに描写していると話題になった。

たしかにリアルなのだろうが、そうはいっても、現実の受刑者生活はあそこに書かれているよりは、もうちょっと汚らしく、もうちょっと殺伐とし、もうちょっと過酷で、もうちょっと退屈なものだったはずだ。

これはあらゆる創作物に当てはまる。

やや美化された心霊体験

小説やマンガに限らず、このブログにしたってそうである。ぼくがここに現実に起こった出来事を書いたとしよう。たとえば昨日のように、「心霊スポットに行って写真を撮ったらヘンなモノのが映っていた」という話を書いたとしよう。

ちなみに昨日の話には誇張もわい曲も何もない。起こったことをそのまま書いているのだが、それでも本当の現実にくらべればやや嘘くさいと自分でも感じる。なんの嘘もついていなくても、ことばにしたとたんに現実よりもやや現実離れしたことのように感じてしまうのは、あらゆる「話」に共通することで、不思議なことだ。

たぶん、現実を言葉に置き換えたとたんに、情報量が減ってしまうからではないだろうか。

たとえば、スポットに行く途中で1回道に迷ったことだとか、トンネルの片側にはごみ処理場の建設が進んでいたので、やむをえず反対側から入ったことだとか、工事現場の人にとがめられるかもしれないと思ってびくびくしていたことだとか、DVDで何度も見たことのあるその場所は乾いていたのに、ぼくがいったときにはトンネルの中央部分に水たまりができていたことだとか、あるいは親戚にクルマを借りていったのだが、その直前にちょとしたいさかいがあったことだとか、その他、周辺事情を書いていけばきりがないのだが、読者には興味のないことなので、話すときには省略する。

しかし、現実を生きている僕にとってはそれらすべてがつながっており、そういうた膨大な情報のカタマリの中に「心霊スポットにいった」という出来事が埋め込まれているのである。そうしたこまごましたディテールを省いて、「心霊スポットにいった」という部分だけを切り出したとしても、そのときぼくが感じたリアルなものは決して感じることができない。

リアルを感じられないというのは、「このうす汚れた退屈な現実」を感じられないということである。

マンガにしたり、活字にした時点で、どうしたって情報はまびかれ、退屈でうすよごれた現実が、ほんの少し美化されてしまう。

だからこそ、アニメオタクはアニメの中の美化された世界にひかれていくのではないのか。ぼくはアニメの中の世界には惹かれないが、小説の中の世界に惹かれてしまうことがある。たとえば堀辰雄の『風立ちぬ』である。

風立ちぬ

眠れない時は、音楽を聴くより、誰かが語っているものを聞いたほうが眠りが訪れやすいので、朗読された小説や、怪談話を聞くことがよくある。それで、昨日は『風立ちぬ』を聞いた。もともと好きな作品であり、なぜかというとぼくは

高原の結核療養所の話が好き

だからである。トーマス・マンの『魔の山』というのも高原のサナトリウムの話なのだが、20代のころから何度も読んでいる。そしてなぜサナトリウムのはなしがすきなのかというと、

閉鎖された場所の話が好き

だからだといえる。上に書いた『刑務所の中』も同じ意味でスキなマンガだ。

高原のサナトリウムは、人が少なく、日々の生活が同じことの繰り返しで、整然と進んでいくので、読んでいて心が休まるような気がするからだ。

現実のサナトリウムはちがう

ただし、現実のサナトリウムはそんなにいいもんじゃなかったはずだ。そもそもそういう場所に行かなければならないのは、死にかけているからであり、日々死を恐れ、ゴホゴホと咳をし、血を吐き、弱音を吐いて暮らしていたはずである。

せまいところに大勢で閉じ込められているのだから、つまらないうわさ話が飛び交い、息苦しいこともあるだろう。

ただし、小説にはそういう細かなことは描かれないので、静かで落ち着いた湖の底みたいな世界がそこにあるのではないかとつい思ってしまう。そんな世界などどこにもないにきまってているのに、なんだかあこがれてしまう。ちょっと引用してみよう。

(サナトリウムの)時間から抜け出したような日々にあっては、私達の日常生活のどんな些細ささいなものまで、その一つ一つがいままでとは全然異った魅力を持ち出すのだ。私の身近にあるこの微温なまぬるい、好い匂いのする存在、その少し早い呼吸、私の手をとっているそのしなやかな手、その微笑、それからまたときどき取り交わす平凡な会話(中略)こんなささやかなものだけで私達がこれほどまで満足していられるのは、ただ私がそれをこの女と共にしているからなのだ、と云うことを私は確信して居られた。

「こんなきれいごとで生きられるわけねーだろ」と思う一方で、自分も

こんな風にマンダムな人生を送ってみたい。心霊スポットなどには決していかないような人生を生きてみたい

などとつい思ってしまう。

すべての文章はきれいごとだ

宮崎駿監督が『となりのトトロ』について、昔の日本はあんなきれいごとじゃなくてヤブ蚊が多くてたいへんだった、みたいなことを言っていたけど、それと同じだ。

すべての文章はきれいごとで、このnoteですら、一文字でも書いたとたんに、そこに現実ではない場所が生まれてしまうのだが、それでも書いてしまうし、書かれたものに惹かれてしまうのをどうすることもできない。

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