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軽率な自分を遺憾に思う

対面のコミュニケーションでは、おもっていることが想像以上に相手に伝わる。

ことばの上ではほめていても内心でやや軽く見ていたり、ウソをついていたり、どうでもいいと思っていたりすることは、ボディランゲージで相手に伝わる。

活字のコミュニケーションではこれほど伝わらない。そのぶんメールやSNSでは誤解が生じやすいわけだけど、これはウラをかえせば隠し事もやりやすいということだ。

で、少人数でZOOMをやると、対面と同レベルにボディランゲージが伝わっていると感じる。すくなくともぼくはそう感じる。足は映らないので貧乏ゆすりしているかどうかまではわからないけど、視線や顔色からたくさんのことを感じ取れるし、逆に言えばバレバレなのだろう。

昨晩、ZOOMをやっていてあらためてそう感じた。伝わるのだから、もっと誠意を込めてしゃべろうなどとあとで反省もした。

しかし、この「もっと誠意を込めてしゃべろう」がそもそも危ないのだ。昨晩、何をしゃべっていたかというと主に、カルトや陰謀論にハマりやすい精神状態についてさまざまな実例をまじえてあれやこれやと論じていた。

けっして他人事としてではなく一歩間違えれば自分もハマるという危機感を抱き、ごく親しい人がハマったことがあるか、または現在ハマっている問題として切実にとらえて話し合った。

その結果として、もちろんいろんな知見が得られたんだけど、ざっくりとまとめるならば「あまりまじめに考え詰め、理想を追いすぎるのはよくない」ということである。そして、そのまじめさの裏には自尊心のワナがあるということ。したがって誰もが陥る危険があるという結論に行きついた。ざっくりしすぎかな。。。

これは数日前にこのnoteに書いたことにも通じる。仕事を辞めてフラフラしているとカルトや陰謀論にハマりやすいのは仕事を辞めて考える時間がたっぷりとあり、立場や役割があやふやなので「自分の人生ってなんなんだろう」と突き詰めやすくなってしまうからだろう。

人生や正義を突き詰め、理想の社会を突き詰める人ほどカルトや陰謀論にハマりやすい。今、岡田尊司氏の『マインド・コントロール』という本を読んでいるんだけど同じことが書いてあるのでたぶん当たっているはずだ。

そこでさっきの話に戻るけど、ZOOMでは本心が伝わりやすいからもっと誠意を込めよう、と考えるぼくはまじめすぎる。

まじめすぎるというのはムリしているということだ。もっと誠意を込めよう、というのは言い換えればもっと誠意のある人に「見られたい」という願望のあらわれであり、相手によく思われたいという自尊心のワナにおちている。

もっと良い人に見られたいというのは、よく言えば向上心だしマジメなのだが、理想を追いすぎるとゆがみが生じる。

自然な誠意ならいいが、がんばって誠意を作り出そうとするとゆがんだものになる。作為的な誠意からは反作用が生じる。まじめで一途な人ほどとんでもないテロを引き起こす。「よくしたい」という気持ちは、どこかで「よく見られたい」と表裏一体である。

つまり、がんばりすぎるのはよくないということ。

昨日アップした記事「草の根オピニオンのメリットとデメリットについて」はいま読み返すとやや誠意がたりない。だがそれがこの男である。

けっして悪いヤツではないのだが、しばしば智に働いて口がすべる。軽率なことを言いやすい。まことに遺憾である。ところで政府が遺憾の意を表明する時というのはそれ以上動く気がないときである。

でもそんなものなのだ。これ以上カッコよく見せようとするとかならず反作用が生じる。世界を救うと言っていたカルトの尊師がさいごにはどういうことになったか・・。

ぼくは立派な人間ではない。そもそも人間というのは立派なものではないと思う。ただし、人間全員をぼくのような下等レベルにひきずりおろそうということではなくて、ぼくはだらしないところを見せますが、あなたがだらしないところを見せてもあなたのことを嫌いにはならないので安心してくださいと言いたい。

だれもが他人の目を気にして生きているので、だれでも肩に力が入りやすくなるときがある。つまりカルトの入口にたつ危険はある。だいじょうぶな人などいない。だから無為自然はムリだけどなるべく無為自然でいこう。

というわけでさしあたり映画『パルプフィクション』をあと20回くらい見直そうと思う。あの作品には、この世でもっとも病んだものをカッコよく、カッコいいものを病んだものに見せる闇っぽい健全さがある。ああいう健全な闇をおもしろがっていればすこしは正気を保てそうだ。


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