見出し画像

いつかはそういう日が来てほしい

■女性の地位とアジアサッカーは似ている

フェミニズムのことはよくわからないので、以下は、あくまでシロウトの理解に過ぎないということでご了承ください。

さて、フェミニズムというのがなんなのかというと、ごくごく初歩的な理解としては

性差別をなくそうとしている運動

だと思う。性がちがうというだけで、不当に差別されたり、抑圧されないように、是正を求めているのだと。こういう理解でいいだろうか。いいと思うんだけど・・イイですよね?

「いや、まちがっている」と言われてしまうと困るんだけど、まあ基本は合っていることにして、先へ進めよう。

さて、ここからサッカーにつなげて考えてみたいんだけど、誤解を承知でざっくりと言わせてもらうなら、これまでの社会における女性の地位というのは、世界のサッカー界におけるアジア人の地位とやや似ている。

アジア人のサッカー選手は、これまで基本的になめられてきたし、現在もなめられている。なんなら蔑視されているといってもいい。

ただし、ここ最近、世界のトップリーグで活躍するアジア人サッカー選手もすこしずつ増えてきた。個人レベルではマンチェスターユナイテッドで活躍したパク・チソン氏のような人も出てきた。とはいえ、アジアサッカー全体として、まだまだバカにされている。

女性の活躍についてもおなじことがいえて、個人レベルでいえば、キュリー夫人のように突出した才能は昔から活躍しているけど、それで女性全体の地位が向上したとはいえない。

どの世界でも同じだろうが、突出した個があらわれても、それですぐに全体の地位が向上したりはしない。

そういう優秀な個が次々に現れ、数を増やし、やがて多数派を占めるようになってようやく全体の印象が変わるわけで、そこにいたるには長い時間がかかる。

キュリー夫人やサッチャーやメルケルやマザーテレサみたいな人が、これでもかというくらいに現れ、社会の多数派を占めるようになってようやく、全体の印象が変わっていく。

それはサッカーも同じで、今度のワールドカップでサウジがアルゼンチンに勝ち、日本がドイツに勝っても、それ自体は「サプライズ」といわれて終わりだ。

でも、こういうサプライズを積み重ねていった先に、やがてサプライズがありふれたものになれば、それはもはやサプライズと呼ばれなくなる。日本がドイツに勝つことが、アルゼンチンがドイツに勝つくらいありふれたことになったときにアジアサッカーの地位が向上する。

それまでは一個一個の試合で結果を出しつづけるしかない。伊藤詩織さんの裁判のような勝利を一個一個をつみかさねていくしかない。

それまでは選手もファンもくやしい思いが続く。今回、解説の本田圭佑氏が「ざまあみろですよ」と言ったそうだが、これまで悔しい思いをさんざん味わってきたからこそ、この言葉なのだろう。

伊藤さんが山口氏に勝訴した時にも「ざまあみろですよ」とおもった女性は多かっただろう。

■その先のこと

しかし、やがて「その日」はやってくるはずだ。アジアサッカー界でも、フェミニズム運動でも、一個一個の勝利の積み重ねの先に、やがて「ざまあみろですよ」でなく「ふつうのことですよ」になる日が来るに違いない。

日本サッカー協会は2050年までにワールドカップで優勝することを目標に掲げているが、2050年にその日がやってきたと想像してみよう。

相手はなんとサウジである。アルゼンチンやドイツのサッカーは不振が続き、サッカー大国の面影はもはやない。両国とも予選で敗退したけど、だれも驚かない。

今日は、その先について書きたい。

もし仮にそういうアジアサッカーの時代が到来した場合、ヨーロッパサッカーや南米サッカーは、今のアジアサッカーのようにバカにされるようになっていくだろう。

そうなったら、今度はヨーロッパや南米選手たちが、いまの本田選手のようにくやしさをためてワールドカップに出場し、

ざまあみろですよ

というようになる。もしそうなるとすれば、これは「アジア蔑視がヨーロッパ蔑視に入れ替わった」だけで、差別そのものは消えていない。

それからさらに50年後にヨーロッパサッカーの逆襲が起こり、またアジアサッカーが蔑視されるようになったとしてもおなじで、やったやられたの繰り返しである。フェミニズム運動もそうならないとはいえない。

やがて世界のあらゆる分野を女性が牛耳るような日が来れば、今度は生まれつき男性だというだけで、不当に差別されるようになるかもしれない。男性はヒジャーブで顔を隠さないとタイホされるという日が来るかもしれない(さすがにないと思いますけど)。

でも、仮にそうなったとすれば、女性蔑視が男性蔑視入れ替わるだけで、性による差別そのものは無くなっていない。優秀なフェミニストはそんな未来を望んでいないはずだ。

やったやられたの繰り返しを目指しているのではないだろう。男とか女とかそういうことはどうでもいいじゃないかと、「性による差別」そのものが解消された世界を目指しているはずだ。

サッカーも同じで、いまはヨーロッパに追いつけ追い越せでいい。「ざまあみろですよ」でいいだろう。でもその先にアジアが君臨し、アジア蔑視がヨーロッパ蔑視に置き換わるだけなら、イスラム帝国がヨーロッパに侵入していたころと変わらない。歴史は繰り返す、だ。

「国の違いによる偏見」そのものをなくして、サウジとか日本とかアルゼンチンとかドイツとかそういうことはどうでもいいじゃないかという風にならないとつまらない。

いつの日か「国別で争ってもつまらない」という日が来てほしいものだ。2050年ではとても無理だし、2100年でも全然無理である。もっとずーっとはるか未来のことだけど、でもいつかはそういう日が来てほしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?