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幕末にうまれなくてよかったな

幕末にうまれなくてよかったな~と思うことがある。幕末には剣の力が求められた。

勝海舟であろうと、坂本龍馬であろうと、木戸孝允であろうと、だれであろうと、「とりあえず」剣術ができなければ話にならなかった。いくら頭が切れようと、弁が立とうと、雄大な構想を持っていようと、とりあえず剣術がなければ切って捨てられて終わりの時代だ。

また、いくら弁に長けていても剣がからっきしな人間のところに人は集まらなかったに違いない。ぼくが、もし幕末に生まれていればたぶん剣術はダメだったろうと思えるので、あの時代でなくてよかったなあとつくづくおもう。

リテラシーとしての剣術

今の時代に「とりあえず」求められるのはデジタルへの対応力であり、政治家であろうと、芸術家であろうと、ビジネスマンであろうとデジタルでやり取りできなければ役に立たない。まさに現代の剣術である。

デジタルに適応できなくて困っているお年寄りなどを見ると、幕末に剣術ができなかった人を見ているようで、身につまされるが、剣術にしろ、デジタルにしろ、もともとの向き不向きがあるにもかかわらず、基本的な素養として求めらてしまう時代がある。

「基本的な素養として求められる」というのは言い換えれば

リテラシー

ということになるだろう。リテラシーはもともとは「読み書きの能力」という意味だが、読んだり書いたりするのにも向いている人と向いていない人がいる。しかし、その能力が「とりあえず」万人に求められてしまうので、たまたま得意な人がいい学校に行けたりして得をする。

読み書きの代わりに、絵が得意だったり、歌がうまかったり、運動ができる人もいるが、それではなかなか食えない。

これは近代に入ってからはずーっとそうだったんだけど、現代になるとそれプラス情報のリテラシーが求められる。

そう考えれば、幕末はいわば

剣術のリテラシー

とでもいえるものが求められる時代だったわけで、今は情報リテラシーに苦労しているような人が、幕末ならばエラそうな顔でのさばっていたのかもしれない。

さまざまなリテラシー

広い意味でのリテラシーには、ほかにもいろいろある。たとえば、外国語。今なら英語だ。

これも向き不向きがあるし、そもそもバイリンガルの人にくらべたらそれ以外の人は圧倒的に不利なのだが、ビジネスだろうが政治だろうが英語のできない人は圧倒的に不利だ。

ぼくはそれで助かっている部類に入るのでだまっているけど、じっさいのところかなり不公平なのである。

あるいは車の運転は、20世紀のリテラシーといっていいだろう。どんな仕事でもとりあえず車を動かさなければならない場面はあるので、免許をもっていない人が就職しようと思ったら、パソコンを触れないくらいに不利だ。

また、今の時代にはSNSのリテラシーというものもある。

これは情報リテラシーから派生したものだけど、もはや別の分野になりつつあり、テクノロジーというよりコミュニケーション力だといえる。

それからもうひとつ大事なリテラシーがあって、お金のリテラシーだ。

これは、有史以来ずーっと大事なリテラシーだとおもうけど資本主義社会になってからは特に求められるリテラシーである。しかし、日本人は苦手としているというか毛嫌いする人もいるい。

未来のリテラシーとは

これからどうなるかなどだれにもわからないけど、いまのところはハラスメント的な素養が社会のリテラシーになりつつある気がする。

将来的には環境的なリテラシーで差別や非難がおこる時代が来るのかもしれず、また、ビジュアル処理能力が重要になることも考えれられる。

あるいはサイキック的な素養が求められる時代がくるかもしれないが、そうなったら嫌だなあという話は数日前にすでに書いた。

そういうわけで、いつの時代にも得する人と損する人がいるんだけど、・・

それよりも大事なことがある

と思うのだ。リテラシーはリテラシーでしかなく、「とりあえず」求められるだけで、幕末の剣術もソコソコできたらよかったはずだ。

なまじ腕が立つと新選組になってしまう。いつの時代もリテラシーはソコソコでよく、深入りすると次の時代に取り残されるので要注意だろう。

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