記者という仕事や報道について思うこと(情報との向き合い方)

読書感想文ならぬ、マスコミ感想文。

私は以前記者の仕事をしていたので、今でも新聞やテレビ、ネットや週刊誌を含めいろいろな媒体から情報を収集している。

かつてその業界に所属し情報を発信する側にいた者として一つ主張しておきたいのは、一つの事象に対して一つの媒体(ソース)から取り入れた情報を元に物事の真偽やそれに対する自身の意見を構成するのは、極めて危険ということだ。なぜなら、記事や情報を発信する記者というのもただの人間である以上、記事や映像化する際にどうしてもその人の主観や価値観というのは入り込んでしまう。

どんなに公平に多様な意見を取り入れようと取材し、多方面から情報を集め偏りのない情報を発信しようと試みても、記事全体のトーンやテーマ、どのファクトを優先的に取り上げるかという判断において、記者(あるいはメディア各社)の主張というは必ず入り込む。

それが記者としての存在意義であり、独自性の出しどころなのだと考える人もいた(私はこの考え方があまり好きではない)。まぁどのような仕事・職業においてもオリジナリティや自分なりの発想、問題意識を社会に向けて届けたい人というのはいるだろうから、記者というのもそういった類の人がいる職業ではあると考えてみたら良いと思う。医者や裁判官のように、難関な国家試験を突破し厳しい職業倫理規定のもとで職務を執行し、規定に反したり倫理に背いたりするようなことがあれば直ちに懲戒処分や資格を剥奪される、というようなものではない。記者になるのに特別な資格は必要ないし、社内規定などは個々の企業によって異なるだろう。

何が言いたいのかというと、要はマスコミや記者というのは、世の中の人がなんとなく想像してそうな「特別な仕事をしているたち」では本当は全くなくて、普通にただの営利企業であり、サラリーマンなのだ。もちろん、この仕事が社会に果たす役割として「中立公正に事実に基づく正確な情報を発信する」ことを心がけるのは記者として当然の責務だと、少なくとも私はそう思いながら当時仕事をしていたし、今記者やジャーナリストを名乗る人たちはそうであると信じたい。でも、真実や真偽を確実に見極める目なんてどんな人間であれ持ち合わせているわけもなく、放送時間や文字数制限もある中で何を優先的に伝えるべきか?となると、発する情報の態様には記者の主観が入らざるを得ない。

だからこそ、初めに戻るが、一つの事象について正確な情報を集めたいときは、一つの媒体(ニュースソース)だけでなく、複数の媒体をチェックして比較するのがいい。一つの記者会見をとっても、各社どこに焦点を当てているか、どんなトーンで記事を書いているか、どのコメントやファクトを優先して取り上げるか、共通して重要だとされていることは何か。比較し、吟味することで、より「加工」される前の「生」に近い情報が透けて見えてくる。

自身の考えや意見を形成するときは、このような「生」の情報をもとに思考を回し整理する方がバイアスがかからないので、変な陰謀論や妄想に取り憑かれて他者や社会に正当性のないフラストレーションを抱くという無駄な時間がなくなるし、ビジネスなど公共の場で人と接する時にも「思慮が浅い人」というレッテルを貼られる心配も少なくなる。
正しくない情報に振り回されて扇動され、愚かな意見を垂れ流しまうというリスクが低減されるのだ。

余談だが、受取手が正しい情報を収集するためにも、記事に記者名を入れるのは検討されるべきなのではないかと考えている。過去にその記者がどんな記事を書いている人かがわかれば、どんな思考バイアスがある人が記事を書いているかも受取側で判断できる可能性が高いからだ。

さて、記者という職業は、本来なんらかの特権性を、資格などの客観的な事実に基づき与えられている職業では本当はない、ということは前述したとおりである。人を治療する医者、人を裁く裁判官といった資格制の士業はその職務を執行するために「必要な能力・人格」が備わっていることを国家試験などで証明し、資格を得た者だけが従事できる、その意味で「特権性」とそれを裏付ける「正当性」というのは主張できるだろう。

記者はそうではない。それでも、記者やそれを束ねるマスコミには、政治家や有名人を社会的に抹殺するだけの力が備わっている。権力者とされる人に取材に答えるよう要求したり、記者会見を要求したりする、謎の特権性が存在する。
そしてその主張や要望は、「社会はそれを知りたがっている」「権力者は自分の行いについて社会に発信する義務がある」という「社会」あるいはそれに所属する「人」を拠り所としている。つまり、記者やマスコミに特権性が認められるとしたら、その正当性は「社会」という概念にあるのだ。

ただ、こうした話に疑問を持つ人は多いと思う。少なくとも、私はあまりピンとこない。むしろ、「社会」を盾に、一私人にあまりに不躾な質問やプライバシーに関わる私的な情報についての開示要求を繰り返したり、記者会見でヤジや罵倒としか思えない質問ですらない主張を取材対象にぶつけたり、取材対象への公平な視点が欠けたままの情報をさも正しいことのように発信したり、権力者とされる方々への執拗なバッシングや人格否定に近いことを繰り返し報じたり…
もちろん、それが記者やマスコミの全てではなく、真摯に社会で起きた事象の真実を見極めようと、中立な視点でどの取材対象に敬意をもって接する記者を私は何人も知っている。でも、事実として、前述したような著しく偏りのある人たちも紛れている、というのは少なからず感じたことはある。「それはただのあなた一個人の主張や考えであり、それを報道機関という社会的権威のある名のもと、真実であるかのように大々的に社会に向けて発信するのはどうなのでしょうか…?」と感じたことは何度もある。

マスコミ業界から離れ、私個人として、社会に属する一人の人間として日々のニュースや報道に接した時に「あれ、なんでこんなことになってるんだっけ?こんなことを言う権利、記者にあるんだっけ?そんなにマスコミや記者って偉いんだっけ?」と思うことが今でも少なくない。

記者やマスコミのそうした正当性のない特権意識、それを勘違いしているのは社会ではなくて、どちらかといえばマスコミ側であるような気がしている。少なくとも、ネット・SNSが発展したことで、社会に属する一人一人の個人が自身の主張や意見を社会に直接発信できるようになり、さらには情報収集ができるようになった。特にSNSの台頭によって個人そのものの影響力が高まり、声が束ねやすくなり、名もなき「個人」の集団が、大きなムーブメントを起こせるだけの力を(良くも悪くも)持つようになった。有名人など権力者とされる側の人たちも、自分の考えや主張を自ら発信する手段を与えられた。そうした中で、マスコミの「社会を代表する」「社会の代弁者」のような価値観や考え方、それに基づく特権意識というのはもはや詭弁でありマスコミ側の都合のいい自己解釈でしかなく、見直されるべき局面に来ていると私は感じている。

マスコミや記者、ジャーナリズムが必要ないということではない。むしろ現代社会の中でその存在意義、正当性を再定義する時期になっているのではないかと思う。今までようにマスコミがいくら社会正義を掲げてみたところで、その主張や倫理観、職務への前提意識が社会の認識や求められている役割から著しくかけ離れているとしたら、その記者やマスコミの仕事に正当性はない。

記者個人や一方の当事者の主張や考えを糾弾する対象に一方的にぶつけて、否定・反論意見については検証せず、それがあたかも真実かのように社会に垂れ流す行為について「社会的意義」を盾に正当性をもって行っているとマスコミが考えているとしたら、今の社会のマスコミ批判・不信感にもっと真摯に向き合うべきだと思う。

本当は松本人志さんの報道について私の考えをまとめたかったのだが、記者やマスコミ論が長くなってしまったので、松本人志さんの話は次の記事で書く。


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