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【連載第7回/全15回】【「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』】

※▼第Ⅲ章.奇蹟篇
第4節.狂気の愛とエロスの映画
第5節.崩壊する『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の構造/〈分身関係〉と〈予示と反復〉の〈逸脱〉
・第ⅰ項.謎めいた予言から
・第ⅱ項.テイラーの〈未来〉とユリスの〈死〉から離れて/「〈いま〉届く〈手紙〉」


※※この全15回の連載記事投稿は【10万字一挙版】の分割連載版となります。記事の内容は軽微な加筆修正以外に変更はありません。

第4節.狂気の愛とエロスの映画



前節ではギルベルトがヴァイオレットと逢えない(逢ってはいけない)ことを論じた。
それはひとつ目の〈奇蹟〉の〈痕跡〉である〈愛の成就〉を〈不可能〉にするものであった。

そしてそれが〈不可能性〉であるのはギルベルトのヴァイオレットにたいする罪の重さが〈過去〉に起因するもの以上に〈未来〉に犯すことになる罪――つまり彼女と愛し合うこと――がまさにそのことの方があまりに罪深く背徳的な禁忌であるからであった。 

この結論が妥当であるのはあくまでもギルベルトがヴァイオレットをどこまでも愛してしまう場合である。もし愛していないならば、それを自制したり忘れ去ることが可能であるならば当然まったく別のお話になる。

離れ離れになってからはじめよう。まず、彼は彼女の生死を確認しようとするだろう。生きていたならば何がなんでも会いに行き心から謝罪しただろう。たとえヴァイオレットが自分をどう思っていたとしてもである。
どんな言葉も受け入れたことだろう。もしヴァイオレットに愛してると伝えられてもギルベルトが彼女を愛していなければまったく違ったかたちでそれを受け入れることができただろうし、その愛はひな鳥の刷り込みのようなものだと諭し終わらせることもできたはずだ。

もし死亡していたならばそのときはじめて真の意味で彼は懺悔して泣くだろう。(※つまり彼は最後まで実は本心から悔いていないのだ。だからこそ罪深いのである。これは後述する。重要な点であるので覚えておいてほしい。)

しかしそうではなかったのだ。ギルベルトは彼女をどこまでも愛していた。ずっと変わらずである。それは間違ったものだった。
間違った愛(それをエロスとして「第Ⅰ章.エロス篇」で論じた)から始まる物語――。

間違った愛から始まりその軌跡とともに歩み、間違った愛の終着に至る。

それが『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』なのである。
(※急いで付け加えたほうがいいのかもしれない。重要なのは間違った愛の終着とは何かである。そのルートでしかたどり着けないものにこの先で出会うことになる。)

本作はたとえ間違った愛から始まったのだとしても最後にはその誤りが正されたり消え去ったりする物語、ではない。
逆に徹底して最後に向かうまで背徳的なエロスが高まり続けていく物語なのだ。それを見過ごさないでほしい。

再び「第Ⅰ章.エロス篇」で引いた言葉を玩味しよう。

”エロティシズムとは、死に至るまで生を称えることである”

”まさにこの侵犯の運動においてこそ、唯一この運動においてだけ、存在の頂点はその全貌を明らかにするのである”

ジョルジュ・バタイユ、 酒井 健訳『エロティシズム』(ちくま学芸文庫、2004年、原著1957年、p.16、p.470)

  ギルベルトの深淵に潜み蠢き這い出てくる情欲とヴァイオレットという妖花の香気と嬌態が、禁忌の交わりを果たそうと、一方が仕掛け一方はかみ殺し抑制することで綾なされる、エロスを通奏低音とした物語――。

物語という内容を入れられたエロスの形式は、時と媒体を変える言葉の律動、陰影に富む映像のリズムによってじわじわと確実にクライマックスへと昂ぶらせていく。

『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』はどこまでも美しい相貌のうちにこうしたファナティックでエロティックなパッションがみなぎり渦巻いている狂気の愛の映画なのだ。

(※これもまた一部から、ギルベルトのヴァイオレットへの愛は家族愛みたいなものだと思っている、思っていた、ゆえに~という感想を聞いて筆者はたいへん驚いたものである。家族愛ではこのような映画にはなりえないだろう。何がそういった見方につながるのかの基因はそれはそれで興味深いものではあるが……。)

間違った愛――。
そうであるならば――ギルベルトがヴァイオレットを愛しているとしても、その愛が叶ってはならないものであるというならば――ヴァイオレットに直接会って突き放せばよかったではないかと思うかもしれない。
しかしそれはできないのだ。
ギルベルトが情けない人間だからではない。罪深い人間だからだ。
これ以上罪を重ねることが不可能なほどに罪を犯しているからこそ上辺だけ取り繕ったり内心と真逆の虚偽を口にすることはできないのだ。
もしそれをすればそれは欺瞞の罪だろう。それはさらなるヴァイオレットへの侮辱だろう。
ギルベルトにできるのはただ自らの沈黙の拒絶によるヴァイオレットの悲しみを罰として受け入れるだけである。
思い出してほしい。あのときギルベルトは決して嘘を云っていない。むしろ本音を絞り出している。(以下画像を参照)

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(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式Twitterより)

「帰ってくれ」と二度くりかえし「今の君に私は必要ない」と断じる。
ここに嘘はない。
このギルベルトの本音は「私は君が必要だ」と云ってしまわないための代替表現だろう。
続けよう。

「それに……君がいると、私は思い出してしまう……。幼い君を戦場に駆り出したこと……君が……私の命令を聞いて……両腕を失って……。」
(前掲書『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン STORYBOARD』pp.112-113)

そこでギルベルトの前で燃え盛る薪が過去の戦火に転じ、彼は血を流した幼いヴァイオレットが見つめる姿を幻視しているのだ。(以下画像を参照)

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(前掲書『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン STORYBOARD』p.113)

こう云いながら法悦しているのだ。
ギルベルトが抑え込もうとする燃えさかる情欲はヴァイオレットのエロスの表現であった〈水〉を泡立たせるほど激しく沸騰させている。
戦火に佇む幼き少女――。(以下画像を参照)

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(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式Twitterより)

何度この秘めやかなイメージを反芻しては罪悪感とともに恍惚に耽ったのか――。
何ということだろう。
これは確定的だ。
これこそがギルベルトが追い払えない罪の責め苦であると同時に求め手に入れたものであることの証しなのだ。
ギルベルトはこのあまりに倒錯した美しさとかわいらしさに囚われているのである。
この本音は実質、罪の告白、懺悔であると同時に「それが望みだったのだ」という欲望の披瀝でもあった。

そしてヴァイオレットはギルベルトのこの想いを何も理解していない。それがわからない。
そう、ヴァイオレットはここまでさんざん論じてきたギルベルトが彼女と逢えないという〈不可能性〉をまったく意に介すことなく彼を誘惑し続けるのである。

ここでふたつ目の〈奇蹟の痕跡〉である新たな〈不可能性〉が現れる。

ヴァイオレットの場合だ。

ギルベルトに加えて〈ヴァイオレットの愛の不可能性〉が顕在化したこのとき、〈不可能性〉は極まる。

ではこの究極の〈不可能な愛〉が何をもたらしたかを確認していくことにしよう。


第5節.崩壊する『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の構造/〈分身関係〉と〈予示と反復〉の〈逸脱〉


ヴァイオレットとギルベルトの〈愛の成就〉〈奇蹟〉であった。
〈奇蹟〉は〈説明不可能〉である。
よってその無限小にまで近づくことしかできない。
それは〈不可能なもの〉を見つけて抉り出すことであり私たちの途上のことである。

ギルベルトの次に見るヴァイオレットの〈不可能性〉とは何だろうか?
本節では本論のハイライトともいえるそれを少々詳しく論じていこう。



・第ⅰ項.謎めいた予言から
 


ひとつ目の〈不可能性〉は、ギルベルトのヴァイオレットへの愛があまりに背徳的であるゆえに――観客とのインタラクションと協働して論理的、倫理的に許されず――成就不可能であるということであった。 

ここで――ヴァイオレットとギルベルト扉一枚を隔てた最接近において――ヴァイオレットの声が時を超えた蠱惑となってギルベルトをくすぐり、彼のエロスの防波堤を決壊すれすれにまで追い込んで最高潮にまで高めていることを見逃してはならない。(以下画像を参照)

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(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式Twitterより)

もしこの再会の場面の意味の重みを等閑視した所見であれば本作は自堕落のそしりを免れないかもしれない。

だからここが見逃してはならないひとつ目の〈不可能性〉の極限、際なのだ。

そしてこのひとつ目の〈不可能性〉があるがゆえに新たに生まれた〈不可能性〉ヴァイオレットのエロスの〈説明不可能性〉なのである。

そう、〈奇蹟〉とともに〈奇蹟の痕跡〉もまたここで〈説明不可能〉な未曾有の領域に足を踏み入れるのだ。

※おわかりだと思うがここで〈説明不可能〉〈奇蹟〉を示す場合とその〈痕跡〉を示す場合に共通して使われている
両者は微妙に違うニュアンスを含んでいる。
そしてその差異と同じ言葉で表すことができているということこそ〈奇蹟〉そのものに迫ることができているという一縷のアリアドネの糸なのである。
つまり今後、〈奇蹟〉とその〈痕跡〉は近づいてゆく(ここがポイント)
これを念頭に置いた上で本論のその筆致を注意深く見守りながら読み進めていってほしい。
逆に〈奇蹟〉、〈痕跡〉、〈不可能性〉、〈ブラックボックス〉などの言葉の概念の明確な識別、定義の区別を気にかける必要はない。そこはお気軽に。

〈説明不可能〉〈奇蹟〉という〈ブラックボックス〉――。
それに迫るための〈奇蹟の痕跡〉であるヴァイオレットの〈ブラックボックス〉という問題がここで前景化するのである。

そう、〈ヴァイオレット〉が〈ブラックボックス〉なのである。

〈ヴァイオレット〉が〈ブラックボックス〉であるとはどういうことか? 
それによって何がもたらされるか?

それを確かめる前に本項の題名にあるように予言めいたエピグラムをもって次項に譲ろう。

「最後に私たちはギルベルトとともに〈死〉に、ヴァイオレットを〈見失う〉。その死は〈堕罪〉か〈新生〉か?」


・第ⅱ項.テイラーの〈未来〉とユリスの〈死〉から離れて/「〈いま〉届く〈手紙〉」


〈愛の成就〉という〈奇蹟〉の消息を追うことが目的であった。
 
〈奇蹟の痕跡〉という〈不可能性〉のひとつ目をギルベルトの背徳的エロスに求めた。

そしていま追っているのはふたつ目の〈不可能性〉であった。
それをヴァイオレット、彼女自身の〈ブラックボックス〉に照準を定めた。

これを論じることで〈奇蹟〉に迫るために必要なふたつの〈不可能なもの〉を見定めたことになる。

そして最後になぜこのふたつの〈不可能なもの〉〈可能なもの〉にすることができたのか――。
〈奇跡〉が起こったのか――。
そこに至ることができる。
 

では〈愛の成就〉という〈奇蹟〉の一歩手前、ヴァイオレットの〈ブラックボックス〉がもたらす〈不可能性〉を探っていこう。

まず、ファーストステップの重要な下ごしらえからはじめよう。

それは「第Ⅱ章.残酷篇」で詳細にたどった〈分身構造〉〈予示と反復〉構造の綻びと〈逸脱〉である。

ヴァイオレット≒テイラー≒リュカ及びギルベルト≒イザベラ≒ユリス類似が〈分身構造〉でありその関係項であるキャラクターがときに〈予示〉となる属性や役割を物語のなかで〈反復〉するように担っているというものであった。

そしてギルベルト≒ユリスであることからユリスはギルベルトの生存の代償となる犠牲の羊として〈死〉ぬのであった。
このギルベルトの生存より後払いの供犠はヴァイオレットがユリスのもとから離れギルベルトを探しに行くことで捧げられたのであった。
 
これが前章までに論じられた「見立て」であった。

しかし『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』はここから、これまで論じた〈予示と反復〉構造〈分身関係〉綻び、〈逸脱〉する。

切断と断絶によってバラバラに散らばる断片――。
そしてそれらが衝突して新しい構造が織りなされていく――。
ここから未曾有の領域に突入する。

〈奇蹟〉の時空へ――。

まずは、〈予示と反復〉構造の綻びと〈逸脱〉を示す事例をあげていこう。

〈類似性〉ではない、〈反復〉しない、〈逸脱〉する〈予示〉だったものたち――。
同じものが反復しないことで1回限りの特異性として新たに現れる。
様々なバラエティがある。
もうひとつの予示ではない予示だったもの。
もうひとつの反復されない予示だったもの。
ズレて反復される予示だったもの。
あるいは同じ〈予示と反復〉〈逸脱〉という視点に力点をおいて観ることで変化するものたち。
そこにあったもの。その意味が崩壊する。変わっていく――。

※つまり何らかの通常の〈予示〉や〈反復〉として読み取れるもの――象徴やメタファーという機能のこと――から〈逸脱〉するものの例をこれからいくつか提示するということである。

※※ここでいう〈逸脱〉とは本来想定される象徴やメタファーの指示の対象とは違うものを指し示しているということである。もちろんある程度のズレはメタファーの本来の機能においても含んでいるがここではその差異により強く焦点を当てる。

〈逸脱〉する予示1 

【エカルテ島の頭をヴェールを覆った届かない手紙を頼んだ子供と抱きつく子供】

ギルベルトに戦争に行って帰ってこない父への手紙の代筆をお願いするエカルテ島の子供は――幼いヴァイオレットの〈反復〉であるが――ドールであるヴァイオレットと反転しているという点で〈逸脱〉している。
(以下画像を参照)

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(前掲書『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン STORYBOARD』p.57)

子供の代筆者となったギルベルトは――過去のヴァイオレットのドールへの成長を〈予示〉とするならば――最終的に手紙を受け取る側となる点でこれも〈逸脱〉している。

つまりキャラクター〈過去〉―〈現在〉―〈未来〉それぞれで〈手紙〉との関わり〈子供〉という属性の位置を替え往還することで様々に転変する。(以下画像を参照)

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(前掲書『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン STORYBOARD』p.58)

さらにその手紙が意図した相手に届かず偶然にもあるいは運命的にヴァイオレットの来訪を招くという意味で手紙の意図も〈逸脱〉した効果を持つ。

               ◆

島での「海への讃歌」の儀式のあとに「大好き」といってギルベルトに抱きつく子供は――ヴァイオレットとギルベルトの出逢いを〈反復〉しているが――明らかにニュアンスの差異が際立つ〈逸脱〉である。
これも過去のヴァイオレットのほうが〈予示〉となっている。
(以下画像を参照)

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(前掲書『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン STORYBOARD』p.91)


〈逸脱〉する予示2
 
【三度鳴く犬】

ギルベルトがいる学校にヴァイオレットとホッジンズが訪ねるシーン。
ホッジンズが木製の門をくぐったあと、遅いノックのように犬が三回鳴く――。
これを聞いた瞬間、筆者は本作が纏うこれまでの舞台の描写と雰囲気から新約聖書の〈ペトロの三度の否認〉を即座に連想した。

〈ペトロの否認〉とは云うまでもなくイエスが捕まったあとにイエスが事前に「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(新共同訳聖書 新約聖書 マタイによる福音書 26章34節)と予告したようにペトロがイエスを三度「知らない」と応えたことである。

この犬の鳴き声はホッジンズが学校内を進んでいく際にも聞こえるため、学校で飼われている犬であろうと推測されるが、どこか違和を感じさせる。

といえばヴァイオレットのぬいぐるみが思い出さる。これが思考に反響するのであるが、生命なきものが「吠える」という不気味さとともに生命の吹き込みの〈予示〉も感じさせる。(以下画像を参照)

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(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式Twitterより)

これが〈予示と反復〉〈逸脱〉であるのは鶏が犬に変えられているというところよりも「鳴く前」ではなくあらかじめ三度「鳴かせている」という点であろう。ここで三度の否認が成立しないことがわかる。

つまりペテロことギルベルトは一度目のホッジンズ、二度目のヴァイオレットの否認ではなく拒絶をへて、次のヴァイオレットの〈手紙〉によって覆るのである。

               ◆

そしてこれはいささか余談ではあるが、本作に新たに登場するキャラクターや舞台がユリスやリュカ、ジルベールなどフランス系の名称と読み方が採用されているのに対して、ユリスの弟はシオニズム(ユダヤの復興運動)の語源ともいえるシオン(フランス語読みならスィヨン)と名づけられている点も気になったところである。

これはギルベルト≒ユリスであり、ペテロが否認したその舞台がエルサレムのシオンの丘の大祭司の屋敷であることを考えれば――ギルベルト≒ペテロ≒ユリス――これらはユリスのシオンへの気持ちが素直に伝えられなかった経緯を表しさらにそれはギルベルトとディートフリートまで反響されうるだろう。


〈逸脱〉する予示3
 
【カマキリ】

ギルベルトのメタファーとして登場したカマキリのその後の消息を追うと、草むらにただ打ち捨てられているワンカットがあるだけである。
(以下画像を参照)

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(前掲書『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン STORYBOARD』p.99)

このわざわざ挿入されるカットの意味が何かを考えてみよう。
(※もちろんカマキリがギルベルトのメタファーなのであれば生きながら死んでいるいまのギルベルトの現状を表しているのは明らかである。)

このカマキリの〈予示と反復〉からの〈逸脱〉埋葬されず死んでいるということにあるだろう。

オスのカマキリといえば交尾時にメスに食われて栄養となることで有名だが、ただ打ち捨てられるこのカマキリは生殖に資さない不能性を示すものといえる。
まずこれが本来性からの〈逸脱〉である。 

※さらによりギルベルトの象徴のこの死骸についての言及を先取りしてここで記すと〈ギルベルトは死んでいるのだが復活する〉のである。
詳しくは後述するので確かめてもらいたい。

またこのカマキリの死骸はギルベルトが修道会の病院の庭で見た兵士の亡骸にも通じ、それが土壌を肥やす糧になる――ギルベルトとヴァイオレットの未来への道を作るという意味を示唆するものでもあるだろう。(※もちろんこれは新約聖書「ヨハネの福音書」第12章24節の「一粒の麦」のたとえである。)(以下画像を参照)

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(前掲書『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン STORYBOARD』p.102)


〈逸脱〉する予示4
 
【曇天と大地との切れ間から現れる陽の光、あるいは四元素】

この『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という映画のもっとも美しいシーンは、ギルベルトに拒絶されたヴァイオレットが嵐の中を駆け出し転び、身を起こすも崩れるシーンだ。(以下の画像を参照)

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(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式Twitterより)

それは美を超越した荘厳さ、崇高をも顕現させている。
 
なによりそこではヴァイオレットを支える大地、全身を打擲する雨風、そして遠くの海と曇天との合間には神々しい陽の光芒という「火」「風(空気)」「水」「地」が一気に集中して渦巻いているのだ。

四元素といえば紀元前5世紀の古代ギリシャの自然哲学者エンペドクレスが提唱したことでよく知られる。
元素を結合させる「愛」の原理と分離を促す「憎」反復による離散集合による事象の生成――。
このシーンにみなぎる緊迫感は世界の没落と次の世界の生成への〈賭け〉によるものなのだ。(※〈賭け〉という重要なキーワードが再び現れたが覚えておいでだろうか?)
ここでの〈予示と反復〉〈逸脱〉とはこの悲壮の極みにあるシーンにおいて、いずれ訪れることを示す光という〈予示〉が〈反復〉を拒否するところにある。(ああ、とてつもなく崇高なエピファニー!)


〈逸脱〉する予示5

【嵐の後の朝】

雨粒に濡れ、朝日に輝く緑と夕日の前の一粒のぶどうのカットは前者が後のクライマックスの月の光の前哨であること、後者は逆に二粒(ヴァイオレットとギルベルト)を連想させる指標である。(※一粒のぶどうはもちろん前記の「一粒の麦」からの〈逸脱〉した〈類似〉である。)
(以下画像を参照)

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(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式HPより)

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(前掲書『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン STORYBOARD』p.137)


〈逸脱〉予示6

【ヴァイオレットをめぐる兄から弟への言葉】 

「今は麻袋に詰め込んで……お前をヴァイオレットの前に放り出したい気分だ……。」
(前掲書『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン STORYBOARD』p.141)

すべてのはじまりであるヴァイオレットとギルベルトの出逢いがディートフリートによるものであったことの〈反復〉を示唆する発言。
もちろんこの一度目が〈予示〉となることはない
(※ディートフリートのここでの前回との役割の差異には以下のようなものがある・一度目との対照性・助言と決別の言による促し・あるいはいかなる意味も持たない・そのいずれでもある。)


このように〈予示と反復〉構造の〈逸脱〉の時系列の事例はどれもエカルテ島で起こっていることがわかる。

               ◆

次に〈分身関係〉の綻びと〈逸脱〉は何をもたらすだろうか。

『外伝』のテイラー⇔イザベラの手紙の相互授受関係は、テイラーが〈未来〉でイザベラと逢うことを示唆する。

リュカ←ユリスはユリスの〈死〉を背景にした関係性の挿話であった。

ではふたつの〈分身関係〉から解き放たれたヴァイオレット→ギルベルトの消息は?

それが〈奇蹟〉であるならば――先の二組の彼女ら彼らと断絶した――別の、あるいは〈関係なく類似した関係性〉を開くことになるだろう。

それがテイラーとイザベラの〈未来〉で会うことでも、リュカとユリスの〈死〉を介した想いの伝達でもないヴァイオレットのギルベルトの〈いま〉における再会だ。

〈愛の成就〉という〈奇蹟〉は、「第Ⅱ章.残酷編」で論じた〈予示と反復〉の構造が揺らぎ〈分身関係〉がその紐帯を解かれることで準備されていたという前提をまず置いておきたい。


本節ではふたつ目の〈不可能性〉であるヴァイオレットの〈不可能性〉〈ブラックボックス〉を論じる前の準備として本作を構成している〈予示と反復〉の構造と〈分身関係〉をほぐすことで新たな別の作用とパースペクティブを得ることを試みた。
それはひとつの映画、ひとつのテクストを賦活し〈多義性〉をもたらすものである。
新たに得たこの視点力能を持っていよいよ本論の核心に迫っていこう。


(連載第8回【第Ⅲ章.奇蹟篇 第6節.ヴァイオレットの〈解体〉/〈懐胎〉/エロス/手紙/ブラックボックス/ふたつ目の〈不可能性〉】に続く)

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