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【連載第13回/全15回】【「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』】

※▼第Ⅲ章.奇蹟篇
第13節.神と交わる女たち/ヴァイオレット/から/の「あいしてる」


※※この全15回の連載記事投稿は【10万字一挙版/「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」を解く最低限の魔法のスペル/「感動した、泣いた」で終わらせないために/本当はエロくて怖い『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』/あるいは隠れたる神と奇蹟の映画/検索ワード:批評と考察】の分割連載版となります。
記事の内容は軽微な加筆修正以外に変更はありません。

第13節.神と交わる女たち/ヴァイオレット/から/の「あいしてる」



前節において〈愛の成就〉は〈なにもなさ〉であるという本論が追ってきた〈奇蹟〉にこたえた。
最後となる本節ではヴァイオレットとギルベルトの〈愛の成就〉をもうひとつ別の視点から描き出してみたい。
それが本稿が最後にこたえなければならないはじめの問いへの架橋にもなるだろう。


前節の「あいしてる」をめぐる論述を導いたのは――現実からフィクションを規定するのではなく――現実からフィクションという現実とは別の〈ブラックボックス〉に入って出ていく先――〈未知のもの〉に出逢うという思考の〈エロス〉であった。

本論の主旋律ともいえる探し求めるもの、〈エロス〉の魅了から「あいしてる」を再び追い求めよう。

「あいしてる」はエロスを育む母胎になる。(※エロスは原初の「あいしてる」にわずかに尻込みするだけの慎みしか持ってはいない。)
もちろんエロスがどこから生い茂ってくるかは種々諸々だろう。
そもそもエロスの言葉の定義がいまでは多様なものになってしまっている。
それでもこの世界を彩り、この世界の根源ともいえる〈カオス〉としての〈エロス〉の生起をヴァイオレットとギルベルトのふたりから跡付けてみたい。
なによりも彼女たちの〈エロス〉からこそ本稿ははじめることができたのだから――。


【入力ワード:狂気のなかの”ただ”の「あいしてる」】


〈エロス〉以前に何があるのか?
〈エロス〉という〈カオス〉を生んだ〈カオス〉とは何か?

それはヴァイオレットとギルベルトの「あいしてる」のことだ。

この「あいしてる」の背後にはもう何もないと論じた。
”ただ”「あいしてる」と云い、それを伝える以外に何もないのだと。
そしてそれは何を生み出すかわからない〈カオス〉なのだ。

〈なにもなさ〉とはすべてを殺しすべてを生む〈カオス〉だ。

さまざまな〈愛〉はこの〈カオス〉が発端となって生まれてくる。
いや、〈なにもなさ〉の〈堕罪〉を免れない現実においては〈愛〉という名をよくわからないまま何にでもやたらめったらつけられていく。

この生まれの素性を忘れたところにすべての〈愛〉は生きている。

しかしほんとうの意味ではそれは魂の抜かれた骸が跳梁跋扈しているだけだ。
生まれ落ちた瞬間に死んでしまうものがこの世界の〈愛〉のあり方だ。
すくなくとも〈エロス〉とはそうであるからこそ失われてしまったものを探そうとする。
それを原動力とするのが〈エロス〉だ。

さまざまな〈愛〉――。
 

すこしだけ辞書的な説明を差し挟もう。

古代ギリシャでは性愛としてのエロース以外にも他に友情や親愛を意味するフィリア 家族愛のストルゲー、そしてアガペー4つの愛が区別されて用いられた。

アガペーは後にキリスト教によって神の普遍的な無限の愛の意味で用いられるようになる以前は、死者への愛や愛一般の好むことや喜びといった意味合いだったという。
しかしキリスト教によってエロースアガペーにたいして肉体的、情欲的、自己中心的な愛とされた以後もキリスト教の歴史のなかでは〈エロス〉は決して否定的意味合いだけを与えられていたわけではない。
それどころか神、キリストとの合一、もっといってしまえばセックスによる法悦、恍惚エクスタシーにいたる伝統は、新プラトン主義や他の様々な神秘主義によって現在に至るまで脈々と息づいている。
神との合一を果たした聖人たちのなかには聖女カテリーナや聖女テレサといった歴史的な偉人に加え現代では精神病院にて貴重な症例として研究対象となった症例マドレーヌといった女性の系譜がある。(※もちろん生物学的、解剖学的な男性も少なくない。その代表が十字架のヨハネだろう。)

彼女たちの法悦の姿をとどめた姿はベルニーニによる彫刻で当世においても見ることができる。(以下画像を参照)

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ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ『福者ルドヴィカ・アルベルトーニ』MUSEYより

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同ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ『聖テレジアの法悦』Wikipediaより

『聖テレジアの法悦』は本稿で引用したジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』のちくま学芸文庫版と哲学者でありラカン派精神分析の創始者である精神分析の泰斗ジャック・ラカンの1972-1973年度のセミネール『アンコール」の邦訳の表紙にともになっている。(※『アンコール』、『エクリ』などのラカンの著作――ほとんどがセミネールであるが――はそのあまりの難解さで有名だが立木康介氏ら数々の信頼のおける書き手による著作によって咀嚼の手助け以上に惹きつけるような新たな視点を得た。また本稿の思考の軌跡にもそれらの影響が鳴り渡っている。)

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上で紹介した立木康介『狂気の愛、狂女への愛、狂気のなかの愛 愛と享楽について精神分析が知っている二、三のことがら』は筆者がヴァイオレットというキャラクターと本作の解釈に際し陰に陽に影響を与えた著作である。


さて唐突なアナロジーとならないための序奏はここまでにして核心に入ろう。

つまりこういうことだ。
筆者にはどうしてもヴァイオレットが――彼女のエロスが――こうした神やキリストとの〈エロス〉的交わりでエクスタシーに達した女性たちに重なって見えるのだ。

こうした聖女たちをコンパクトに紹介する菊池章太『エクスタシーの神学』の引用と〈アガペー〉〈エロス〉をともに思考することで、ヴァイオレットとギルベルトの「あいしてる」から私たちが受け取るものが何であるかを考えてみることにしよう。

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”私たちが誰かとひとつになりたいと思うとき、それはただよろこびをともにするだけではない。悩んだり苦しんだりすることも、その人とともにするのではないか。苦悩を共有する。そうすることで悩んでいる人の心に寄り添うことができる。おたがいをいっそう愛しあうことができるのだという。”(p191)

この本は

”自分がなくなってしまえば、そこで自分の外にある何ものかと出会うことができる。自分という存在をこえた世界とつながる可能性がひらかれてくる。”

”自分を捨てたことでつながる。”

”これがエクスタシーの本質ではないか。”

(p216)

で結ばれる。
 
ともにする苦悩、自分を捨てたところでつながるエクスタシーの本質。

では
〈愛の成就〉とは何か?〈あい〉とは?
それが可能になることはあり得るのか?しかしどうやって?

それをここまで問い続けてきた。

前節では〈愛の成就〉はない。つまりそれは〈なにもなさ〉――それの横溢であるという答えに至ったのであった。

それはこういうことであった。 

ここでもまた〈不確定性〉が顔を出す。

〈奇蹟〉を可能にしたのはヴァイオレットの〈ブラックボックス〉という〈不確定性〉とその〈謎〉――〈ミステリー〉に魅了されたギルベルトの〈賭け〉であった。

なぜ〈不確定性〉か?

〈未知のもの〉に出逢うことがわかればそれは自明だろう。

常に〈不確定〉であるから〈未知〉でありうる。

〈不確定性〉に開かれなければ〈未知のもの〉にはなりえない。

〈未知のもの〉はそれが現れてしまえばすぐさま既知となってしまう。
だから既知を殺して現れた〈未知〉は常にすぐ死んでしまうか絶えず既知を殺すことでしか存在し得ない。

〈なにもなさ〉横溢はだからこそそれ以上はもう〈なにもない〉のだ。
〈なにもなさ〉とは絶えざる生成と消滅だ

それに現実的価値がないのは当然のことだろう。
そしてそれは感知することも意味を与えることもできないという絶対的な〈不可能性〉であるのだ。

しかしこの儚くも激烈な破壊作用そのものの〈なにもなさ〉〈奇蹟〉〈痕跡〉〈不可能性〉のような〈痕跡〉を残すことができる。

それがこの『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』というフィクションが現実にもたらすもの――フィクションから現実に持ち帰るものだ。

 すべての既知のものを鏖殺〈未知のもの〉に生まれ変わらせる〈なにもなさ〉は――本論において馴染みの〈不確定性〉であったヴァイオレットの〈ブラックボックス〉やギルベルトの〈賭け〉――そして〈未知のもの〉として死して〈幽霊〉となってあらわれ――そこから〈復活〉〈新生〉を果たすことを可能にした〈充溢そのもの〉である。

この〈なにもなさ〉=〈充溢そのもの〉〈不可能性〉〈不可能〉にもする絶対的な〈不可能性〉である。

だからこそヴァイオレットとギルベルトは――それが〈不可能〉であったにもかかわらず〈奇蹟〉として「あいしてる」を云うものと云われるもののけっして交わることのない一方通行の先で――交わる可能性を宿すことができたのである。

このフィクションのヴァイオレットとギルベルトの〈死〉からの〈復活〉〈新生〉現実にスライドさせることは――現実の一人称の私と私たちが〈死〉としての〈未知のもの〉としてこの映画に出逢うことで――なにものかとして〈復活〉〈新生〉である新たな思考の領域を開くという狂気のなかの交感を果たす〈可能性〉をもたらしうるものであった。

しかし、この〈可能性〉〈必然性〉からではなく絶対的な〈不可能性〉であり〈偶然〉である〈なにもなさ〉から生まれるものである――それが〈カオス〉だ。

つまり別の可能性もありうる。
主観的にいうと別の解釈もありうるということだ。
それが本節の〈エロス〉の可能性〈賭ける〉試みである。

※たとえばここで「第9節.ヴァイオレットもギルベルトも知らないこと、私たちしか知らないこと」で見たヴァイオレットとギルベルトの出逢いの抱擁最後の抱擁の別様の解釈を行おう。

既存の解釈はヴァイオレットの私たちからの〈解放〉として――彼女の最初の出逢いの反復――「なにも知らず怯えていた幼い自分を受け入れてくれ抱きしめてくれた優しい男性という甘いファンタスム、夢想」というものであった。

これを狂気のなかの「あいしてる」という〈なにもなさ〉から解釈すると――絶えざる〈未知のもの〉への変成をとどめたものと解することができる。

つまりヴァイオレットは最後においても――ギルベルトに腕を回さないことでギルベルトという男の手からすり抜け――常に〈未知のもの〉として逃れ去っていく――ドレスを脱ぐようにみずからを脱ぎ去っていく女であることを暗示しているというものである。(※本論でも触れたジョルジュ・バタイユの研究書である横田裕美子『脱ぎ去りの思考: バタイユにおける思考のエロティシズム』はこの解釈をより広く論じたものである。)

『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が最後に凍りつかせ結晶化させたものは「あいしてる」の永遠性に加え、新たにこの〈なにもなさ〉の絶えざる〈死〉と〈新生〉の永劫回帰――つまりギルベルトの絶えざるヴァイオレットの捕獲と彼女の彼からの失跡永遠運動――を認めることができるのである。

これをギルベルトの〈過去〉から〈回帰〉した「あいしてる」に接続してみるならば、ふたりを――この映画を――生かす血液の循環こそが「あいしてる」だったということもできよう。

そしてその循環にはフィクションの〈外〉の現実の私たちも加わりうるのだった。

さて、こうしたヴァイオレットとギルベルトがともに徹底的に〈不可能〉であったにもかかわらず、〈愛しあう〉ことができたことに新たにもうひとつの〈エロス〉による解釈を続けるうえで忘却から救い出し留意するべきことがある。
 
それはヴァイオレットとギルベルトの愛、〈エロス〉の背後には戦争とそれに伴う殺害行為が確固とした現実として横たわっているということである。
いかにギルベルトのその責がほとんどヴァイオレットを武器として使ったことにあり、ヴァイオレットはその点をギルベルトに関してはまったく無視するかのように――つまりヴァイオレットはギルベルトを恨んでいない(かのように)――描かれていようと、いやそれだけにいっそう消えることなくふたりを覆っている。蝕んでいる。

戦火のなかをともにしていなかったならばふたりはこれほどお互いを求め合うことはなかったであろうからこそこの問いは重要である。

こうした事実を強調したうえでどういう〈愛の成就〉の可能性があるだろうか。
 
最終節であるここでは、彼女たちを免罪する方便の論理を構築することも、あるいはその罪過をあらためて並べたて〈堕罪〉を止揚する〈愛〉を語ることもしない。
後者についてはそのいくらかの性格をこれまでの作品分析のうちに読み取れるように思われるからだ。
 
最後に述べておきたい要点は――ヴァイオレットとギルベルトという個人の何かを深く強く追い求めるという――〈エロス〉にその個人を超えた、越境してきた〈外〉が関係しうるのではないか、触れているのではないかということである。
その〈外〉罪の赦し〈愛〉というかたちで――〈アガペー〉としてあったのではないか。

そしてもうひとつは前節にも関係することであるが、私たち現実の観客が惹き起こされるヴァイオレットらキャラクターへの〈エロス〉――〈愛〉がフィクションにとっての〈外〉となること。

その対照となる、私たち現実の個人の〈外〉として現れるフィクションの〈アガペー〉という驚嘆する次元の開闢について。

つまり私たちにフィクションと〈アガペー〉が等根源的に〈外〉となったように――キャラクターの〈外〉の〈アガペー〉に何かもっと別のものが開かれるのではないかという希望を語ってみたいのである。

※私たち現実フィクションとアガペーが開かれたのだから対応してフィクションにはアガペーと現実が開かれると即断しないということである。あるいはフィクションに開かれた現実とは何か?別の名で現れるものとは何かということである。

つまり現実の〈外〉のフィクションフィクションの〈外〉の現実――ヴァイオレットらにとっての〈外〉としての私たちと〈アガペー〉――という〈外〉を媒介した〈未知のもの〉についてである。

そして媒介する〈外〉〈外〉自身にとって〈外〉であるかもしれないということである。

ヴァイオレットとギルベルトが〈エロス〉とともに、その果てに出逢った〈外〉とは――〈未知のもの〉とは何だろうか?

 
それでは見ていこう。
引用するのは前掲書『エクスタシーの神学』である。
 
次の引用は新約聖書のパウロについてのものである。    

”ガラテヤ人々への手紙”(四章九節)で述べているおのれと神との関係は”おたがいが世間から捨てられ、自分さえ捨てたところでつながったのである。” 
(p.215)

これはヴァイオレットとギルベルトがどれほどの自覚があるか――どれほど彼ら以外のものが背負わせようとするか――とは無関係に、戦争によって奪った生命たちの世界から、そして自分自身からも捨てられているふたりが、であるがゆえにつながりあうことが許される――そんな希望を教えてくれる一歩とならないだろうか。
 
また

”アガペーとエロースがまじわる”としてニュッサのグレゴリウスの言葉から”「私は愛に傷ついている」と語るこの[筆者注 旧約聖書の『雅歌』にうたわれた]花嫁は、「形がなく燃えさかる愛(エロース)の矢で傷つけられた」のである。この矢は物質的なものではない。肉体を傷つけることなく、心の深みに達する。そうして「愛(アガペー)に高められた」のである。”

”エロースが人の側から発せられるのに対し、アガペーは神の側からくだされる。惜しみなくあたえられる愛である。”

”グレゴリウスはこのふたつの愛をもっと強く結びつけて考えた。神とひとつになろうとする情熱を燃えたたせるのはアガペーだという。その呼びかけにエロースがこたえる。アガペーの力でエロースが神に向かうのである。神と人とのあいだに愛のまじわりが生じる。”
(pp.98~99)
グレゴリウスは述べる。”そこでは愛の矢をエロースと呼んでいた。愛に傷つきたいという思いはエロースから出発する。その思いは高められ、アガペーの力で愛に傷つくことが成就するのである。”

”おとめたちは願うであろう。愛の矢について私たちも知りたいと。「愛の矢が心の深奥であなたを傷つけ、甘美な痛みをもたらし、情熱を燃あがらせる」のだから。”
(pp.100~101)
”神の高みにまでひきあげられたひとりの聖女が、神と合一をとげている。天使の矢の突きさしはまだ終わらない。テレサの神への愛、すなわちエロースは高まるところまでいったきりもどらない。ふりそそぐ神の愛、アガペーにだきすくめられながら、むごいまでの愛のまじわりはつづいていく。”
(p.102)

傷つくことで成就する〈エロス〉と〈アガペー〉の交感――。
その酷いまでのまじわり――。

ヴァイオレットとギルベルトの愛もそのようなものなのだろうか。

ギルベルトはヴァイオレットのイノセントな愛〈エロス〉に傷つけられる。そんなかたちで抱いた〈エロス〉の清算に彼は苦しめられた。
ヴァイオレットはギルベルトの〈エロス〉を理解することなく妄執に取り憑かれていた。そう云えるのかもしれない。

しかし、もしそんなギルベルトの〈エロス〉が幼いヴァイオレットからの〈アガペー〉の呼びかけにこたえたものだったとすれば――。

もしヴァイオレットのイノセントな狂信的〈エロス〉がギルベルトの背徳的な〈エロス〉とは別の、おしみない〈アガペー〉の力で生まれていたのだとすれば――。

この〈アガペー〉が――本来の神からの無償の愛が――神がイエス・キリストに、人間になることであたえられたように、互いで傷つけあい血を流しあうことに汲々とすることしかできない愚かな人間が、その人間に与えあうこともできるのではないか。
それを私たちは、それ以外ではないもの――〈なにもなさ〉――”ただ”の「あいしてる」として見たはずである。

ヴァイオレットとギルベルトは〈エロス〉によって惹かれた。
惹かれ合った。
それは戦争が肥やしとなったものだった。
そうでしかありえないものだった。
だから結局どうあっても傷つけあう以外にないものだった。

その傷の痛みの意味も新たに生まれ変わるのではないか。
その可能性があるのではないか。

あの出逢いにも〈アガペー〉が――無償の愛が――”ただ”の「あいしてる」があったはずなのだ。(以下の画像を参照)

まだEfrAFbrU4AIYbTq


(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式Twitterより)

そしてあったはずのそれをもう一度云えたかもしれないのだ。
それが〈奇蹟〉以外の何であるだろうか。

彼女らの〈エロス〉と〈アガペー〉のどちらか、どちらからの芽生えからが〈不確定〉となったあの日。
あのとき。
出逢いの日。
なにがおきたかなどわかりはしない。
ただそれでも、彼女たちの再会が彼女たちの〈復活〉と〈新生〉であったとすれば――。

死んでいた、止まっていた時間から、ふたたびふたりは生きはじめる。

”ただ”の「あいしてる」から生きはじめる。

”聖なるものと性的なものとがとけあって、それひとつずつでは思いもよらない、どこか別の世界にまで高められていったかのごとくである。”
(p.105)
キリストの”復活の果たした決定的な役割を強調するチェコの神学者P・ポコルニ―は、復活者との出会いを前後して弟子たちの態度が豹変する顕著な断絶に注目する。[中略]弟子たちの多くは失意落胆の内にガラリヤでの元の生活戻ったであろう。ところが、復活者の顕現後の彼らの態度を特徴づけるものは、霊的高揚であり、隠しようもない喜び(Freude)であり、歓喜である(ルカニ四32、41、52、ヨハネニ020)。それは後のペンテコステ(聖霊降臨)の出来事に比肩しうるような霊的喜悦であり、エクスタシーである。この顕著な態度の変化は、一体何によって生じたものなのだろうか。ポコルニーはそれを衝迫(Impuls)という言葉で表現する。それは意気阻喪している弟子たちの内部からはどうしても出せない、外からの力である。まさにイエスを死人の中から甦らせた神的な力が、この死んだも同然の弟子たちを活性化させたのである。”

芳賀力『救済の物語』(日本キリスト教団出版局、1997年)p.219

私たちは最後にこう問うたのだった。

ヴァイオレットとギルベルトが〈エロス〉とともに、その果てに出逢った〈外〉とは――〈未知のもの〉とは何だろうか? 

と。

これが最後にたどり着いた先だ。

ヴァイオレットの〈エロス〉を生んだギルベルトの〈アガペー〉
ギルベルトの〈エロス〉を生んだヴァイオレットの〈アガペー〉

そしてそのふたりのアガペーは〈そと〉からやってきた。
その〈外〉からやってきた〈未知のもの〉を〈神〉と呼ぶ。
 

……私たちにフィクションと〈アガペー〉が等根源的に〈外〉となったように――キャラクターの〈外〉の〈アガペー〉に何かもっと別のものが開かれるのではないかという希望を語ってみたいのである。

この「キャラクターの〈外〉の〈アガペー〉に何かもっと別のものが開かれ」たものが、フィクションにあらわれた〈神〉である。

現実にではなく『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』にあらわれたものが〈神〉なのである。

そして〈神〉の代わりに私たちの現実には、原初の「あいしてる」を失った骸である私たちを「活性化させ」る「外からの力」が、ヴァイオレットからの「あいしてる」がおくられたのだ。と、そう云ってしまえばいい。


【出力ワード:映画の〈外〉の〈神〉/現実の〈外〉のヴァイオレットの「あいしてる」】


(連載第14回【終章.「なぜヴァイオレットの義手は動くのか?」
を解く最後のスペル】に続く)

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