3.11東日本大震災の被災体験

【 私の2011年3月11日当時プロフィール
岩手県出身(沿岸生まれ、内陸育ち)
・北関東の栃木県在住
大学生
・コンビニでアルバイト
・アパートで一人暮らし

〜〜〜 以下、震災当時の状況を記録 〜〜〜

震災当日の状況 】
・大学の春休み中
・いつものように友人と街で遊んでいた
・友人とデジカメを選ぼうと思い家電量販店に入ったところ地震発生
震度6強
立っていることが困難だった
・その場にうずくまることしかできなかった
・逃げようにも危険で足がすくんでしまう
停電して町中の信号機が全停止
・道路を横切りにくいながらも何とか帰宅
・自宅アパートのオーブントースターのガラスが割れて使えなくなった
・もともと服や書籍で散らかっている部屋がさらに散らかった
・翌日の昼12時頃まで停電、断水
ガスだけは使えた
・アパートの管理人さんが見回りに来て、マッチとロウソクを支給してくれた
電話が繋がらず、携帯メールで家族に連絡するも音信不通
・電池式ラジオでつねに情報収集
・ロウソク1本だけで一夜を過ごす
・暖房がつけられず寒い部屋で一晩すごす


【 震災翌日の状況 】
・実家の家族は安否不明なまま(連絡がこない)
・恐怖と不安で精神的に死んでいた
・だが、バイト先のコンビニからは通常通りの出勤命令
・午前9時〜午後2時頃まで勤務
買い占め客が店内に殺到していた
レジ前も、店の外も長蛇の列
・店内への入場制限をしていた
・正午までずっと停電中
・停電でレジが使えず手打ちの計算機で会計
暖房が付かず、スタッフ用の防寒着を着て接客
・客はみな殺気立っていて怖かった
商品棚は空っぽに(洗剤が1、2個残っているだけ)
・電気が復旧し、商品が何もなくなった正午頃に客がいなくなった
・午後に帰宅後、ラジオで情報収集
・福島の原発事故の情報を聞き、放射能汚染が心配になる


「家族の安否もわからず精神的におかしくなってるのに、なんで私が買い占め客の対応をしなければならないんだ・・・」

精神的にダメージが大きく、最高に理不尽だと思った日。
この日の店長からの出勤命令は、10年経った今でも恨んでいる。



家族地元の被災について 】
・実家近辺は震度6強
・実家の家族とは3日ほど連絡が取れず
家族は避難所に1泊していた
・実家は内陸なので津波の心配はなし
・母方の実家が津波で壊滅
・母方の祖父が津波に流され、震災から1週間後に遺体で見つかる
・私は祖父の火葬に立ち会えず
・震災から2〜3ヶ月くらいは東北行きの新幹線が止まっていた
・新幹線が止まっているので実家の援助に行けず
・母方の叔父が仮設住宅で生活
・私の生まれた病院津波の被害に遭った
・↑震災当日は避難民が押し寄せて大パニックだった
・小中学生の頃、夏休みに行っていた海辺のキャンプ場、海水浴場が津波に流されてなくなった(大槌、陸前高田、「奇跡の一本松」が立っていた付近)
・実家の祖父の会社経営が苦境に(岩手県南でのしいたけ放射能汚染報道が原因)


【 居住地(栃木県)で起きていたこと】
(震災から1週間〜半年後までの状況)
** 終息時期が不明な箇所は「?」あり
2011年3月:大学の先輩の卒業式が中止
2011年3月〜:県内産のほうれん草イチゴ放射能汚染の報道あり
2011年3月〜?:車のガソリンが入手困難
2011年3月〜?:ガソリンスタンドに長い車の列
2011年3〜4月?:計画停電
2011年3〜4月?:水道放射能汚染の報道あり
2011年3〜6月?:東北新幹線は2〜3ヶ月止まったまま
2011年夏〜秋:山間部や県北での放射能汚染説が浮上


〜〜〜 以下、震災当時の個人的な所感 〜〜〜

** すでに上で述べた内容と重複する部分あり。


精神的つらかったこと 】

・実家の家族とは3日間ずっと安否不明。音信不通。
母方の祖父が津波に流されて亡くなった。火葬に立ち会えなかった。
母方の実家が津波で跡形もなくなってしまったこと。
・小中学生時代の夏休みに行っていた思い出のキャンプ場や海水浴場が津波でなくなってしまったこと。
・私が生まれた病院が津波で大きな被害を受けたこと。
・交通機関(東北新幹線、長距離バス)が数ヶ月間ずっと不通で、実家を助けに行けなかったこと。
家族の安否がわからない状況のまま、バイト先のコンビニで殺気立った買い占め客の対応をしなければならなったこと。
・連日、夜になると突然に涙が溢れてきてしまったこと。
・黒い波が押し寄せてくる悪夢を何度か見てはうなされたこと。
・叔父の仮設住宅から被災瓦礫が見えていたこと。
・震災をキッカケに母方の叔父叔母たちが大喧嘩をしていたこと。



怖かったこと

・福島の原発事故の影響で、当時の居住地(栃木県)も放射能汚染されているという噂が飛び交っていたこと。
・コンビニでの買い占め客の応対
・放射能汚染が心配されている中、雨天時の外出
・大きな余震が来るたびに動悸がしたり、強い恐怖感に襲われたこと。
放射能汚染についての知識がまったくなかったこと


【 困っていたこと 

計画停電が始まる直前の時間になって、バイト先のコンビニに買い占め客が殺到してきたこと。
計画停電中にわざわざ来店してくる客の対応。
・放射能汚染の影響で水道水の安全性が不確がだったこと。
・放射能汚染の影響で、スーパーに並ぶ東日本産の野菜、果物、肉類の安全性が不確かだったこと(放射能汚染の検査済み表示がほぼ無かった気がする)。



【 今も許せない理不尽だと思ったこと】

家族の安否が不明精神的に大きなダメージを受けている最中なのに、バイト先のコンビニからは通常通りの出勤を強要されたこと。

・原発事故から1年経った頃、とある旅先にて、放射能汚染された地域から来た人として差別的なことを言われたこと。



【震災から数年〜10年後今も残っている個人的な問題

・大きな地震がくるたびに動悸、異様な恐怖感に襲われる
・地震後の動揺が落ち着くまでに時間がかかる
・3.11での被災経験がない周囲の人々からの孤立感
・「震災はもう終わったことだ」という発言につい苛立ってしまう
・毎年3月11日が近づくと憂鬱になる
・未だに3.11当時の被災映像(津波など)を怖くて見れない
・未だに心の一部は震災当時に取り残されている気分
・当時の精神的なダメージから立ち直れず、前に進めていない無力感がある
・新型コロナウイルスの影響で、3.11に2年連続で帰省できない辛さ


【 震災をきっかけに始まった習慣
・毎年3.11前後は仕事を休む
・毎年3.11前後は帰省し、地元の追悼式に出席
・オーブントースターなしの生活


【 震災をきっかけに芽生えた価値観
・形ある高価なものを買って所有するよりも、価値のある知識や体験にお金を使おう
・どんな立派な家も高級車も、津波に流されれば無意味になる
・将来は土地や家を所有するよりも、身軽な放浪生活がいい
・リスク回避のため、海外に退避できる拠点を持とう
不用品定期的に手放そう



【 被災当時の自分に伝えたいこと

今、無理に立ち直ろうとしないで。
たびたび自殺したくなっても必死に踏みとどまっていた。
それだけで充分えらい。
だから、それ以上は絶対に無理をしないでね。
泣きたい時は思いっきり泣いて。
つらい時には『つらい』と、助けてほしい時には『助けて』と言う勇気をもって。
あなたのことを気にかけている友達も仲間も、実は周りにたくさんいるんだよ。


2021年3月11日
震災から10年目

時が流れるにつれ徐々にいろんなことを忘れていきそうだから、節目の今ここに当時の思いを書いておきます。



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