2024.04.26

認められたいという醜い気持ちが、心の奥からふつふつと湧いてくる。

誰かに褒められたい、よくやってるねと言われたい。この文章を書きながら、自分の言語化された欲を見て涙を流している。そんな4月のあったかい夜。

自分が昔から天性の何かを持っているわけじゃないことは、ずっとわかっていた。能力のでこぼこがでかいし、別に得意なことも親からやらせていてもらったことで、自分が頑張ったから、今ここにいます!と自信を持って言えるところは、今のところまだない。

でも、今、なぜか無性に褒められたい。

誰にでもってわけじゃない。自分より上だと思っている人に褒められたい。

私はよく、人から褒められやすい。でも、それは自分が頑張った結果だったことは、一度もない。

大人っぽいね、英語喋れてすごいね、早稲田にいるんだすごいね、人前であんなにはっきり喋れるなんてすごいね…

どれも、別に私が頑張ったわけでは1ミリもない。自分を演じるのは簡単だし、私の能力の9割は親に与えてもらったものなので、嬉しいけど心の底から湧き出るような正の感情は、正直湧いてこない。

頑張っていること自体を褒めたら、それは終わりだ。だって、努力はみんなするもので、結果が出ない努力なんて意味がないから。その努力こそが結果だったと思えるぐらい頑張らない限り。基本的に、他人にはそう思って生きようとしている。でも頑張ってたしなあ、で済まされたらこの世はもっと適当でいいことになってしまう。結果と努力を混同してしまったら、もうそれはただの甘えだと自分で心に言い聞かせようとしている。

でも、今は無性に誰かに褒めてもらいたい、認めてもらいたい。
私は見てるよ、えらいね、そんな時間まで頑張ってって言ってもらいたい。だって私はみんなにこう言ってる気がするから(これも正直自分のエゴだけど)。誰か見てる人がいるって思えないと人は時々頑張れなくなるから。

私は情報処理が遅いし、頭がいいわけじゃない。だからどうにか人と同じ土俵に立つために人の倍返信を早くして、見る情報を多くして、早く動くようにしているつもりではある。でも、それでも遅い、立ち向かえていない現実が唐突に、深夜2時に自分の心を襲ってくる。

どれだけ手を動かしても仕事が終わらない、どれだけ遅くまで残っていても終わらない、どれだけ私が頑張って手を動かしてもそれは人の「標準」にしか見えない。

これは誰が悪いかって話になってしまうと、それは誰でもない私なのだ。前にやっとけばよかったよね、これを見とけばよかったね。そのひとことで済む。

でも、これを言ってしまったら、私は過去の自分にどうやって顔向けできようか。1ヶ月前に涙を流しながら帰っていた私、1週間前に仕事ができなさすぎて真剣に自分のADHDについて処方箋を考えていた私に、もっと頑張っていたらよかったねって言っちゃうのは、それこそ自分に対しての暴力なんじゃないか。

別に、私が仕事ができないのは他の人のせいじゃない。褒める人がいないのも、他の人のせいじゃない。誰のせいでも、ない。

自分は、他人を通してじゃないと自分を愛しきれないんだと思う。
誰々がこう褒めてくれた自分のここが好き、自分の親がこう言ってくれたここが好き….片手で数えられるぐらいの自分の好きなところは、全部みんなからもらったプレゼントでできている。だから、ここまで苦しんでいる。自分で自分を褒めても、0でしかないから。

4時に寝て、10時に起きる。パソコンに向かって、作業をして、嘆いて、また日が暮れる。こうやって、深夜にパソコンに向かって泣いてる自分を抱きしめてもらいたい。誰かに心の全てを話したい。私を見てほしい。でも、ここまで人に弱みは晒せない。だって、みんな私よりもっと頑張っているのに、誰も嘆いてないから。これだけ苦しさに耐性がないのは、私しかいないから。それがバレて、ああ、これしきのことについてこれないんだ、って烙印を押されるのが怖いから。

だから、ここに全部ぶちまけて、かぎをかけておくしかない。
そのかぎも側溝に投げ捨てたくなる、そんな日の夜。

P.S. こういう文章って翌朝読むとなんでこんなことに…?ってなるよね。
翌日これを読んでドン引きした私より

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