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知ったかぶりの威力 リフレーミングこそ対話的な学び

先日、ある人物に「自分の知識なんて知ったかぶりみたいなもので薄っぺらいもんです」という嘆きにも似た相談を受けた。その人物の知識は決して知ったかぶりなどというものではない。いや、むしろ知ったかぶりって最後までしてみたらどうかってすら思う。

生かじりで知ったかぶりできるのってすげえ能力ではないか。まず、“知ったかぶれるベース”となるものがないと、知ったかぶりなんてできっこない。
あるものに対して知ったかぶりをする時って、脳内の多くの知識を総動員して、その薄っぺらい知識を重ねに重ね合わせてそれを集めて構築することになる。それって、情報活用能力の最たるものではないか。
むしろ、そういう経験の積み重ねこそが、自分が一体何に興味があるのか、本当に興味のあることはどういったものであるのか、それが思考として絞られていくことにつながる。
まさに学びの過程。
それが、高校・大学と専門性が高まっていく中で「つきつめる」ってなっていく。
(こう言っては何だが、大学なんて、知ったかぶりの集まりが、言ってしまったことを引っ込められないから実験を繰り返して整合性をとって自分の理論を証明しようとしているだけじゃん。たまに、捏造しちゃって、いやーんマイッチングの人が現れるけど、気持ちはわからんでもない。)

そうして構築された知ったかぶり論は、人と交流させることによってさらに深化する。お互いに(あるいは数人で)リフレーミングをして肯定する作業を繰り返してみよう。(ここは、批評会ではなく、できればお互いに肯定する間柄でやり合いたいところだ。)
こういうリフレーミング的なやりとりを続けていると、思わぬ思考や論点が生まれたり深まったりするときがないだろうか。また、視点を変えて見ることにもつながることがないだろうか。
自分は同じような経験をして、自分のおぼろげだった論が少しずつ明確になっていった経験がある。

だから、対面で人と話すってのは本当に大事だなあと感じる。一方通行の動画配信はもちろん有益だし勉強になる。けれど、ズームとかでも良いから、やりとりをしたい。もちろんメールでもOK。やりとりって大事。
それで、たまには面と向かって 飲むと、答え合わせができて痛快。

何かを見て何かに触れてひっかかる。これを繰り返すのが人生の学びではななかろうか。それこそが豊かな学び。そこで他者との間に主体的に対話が生まれる。そして、主体的で肯定的なリフレーミングをくり返し、深まる。まさに「主体的・対話的で深い学び」で「豊かな人間性」が構築されていく。なあんて。
人は一人では生きられない。

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