自分しかいないとき

 初めての一人暮らしをしている。ロンドンで。

 これまでずっと京都に住んできた。親と離れたことなんて一度もなかったし、自分でごはんを用意することも、洗濯をすることもなかった。オックスフォードストリートに出かけて、無印で山のように整理用の箱を抱えて、ついでにドライヤーを買ったりした。フライパンだの食器だのを買いに出かけたとき、寮に帰るまでのバス停が全然見つからなくてえっちらおっちら人ごみの中を大きな荷物と一緒にかき分けて進んだ。それでも、生活面ではそんなに苦労を感じていない。幸いなことだ。大体の言葉は聞き取れるし、私ぐらいのリスニング能力の留学生も多いから、別に馬鹿にされたりしない。

 問題は、やはり、勉強面だ。というか、セミナー。

 授業はレクチャーとセミナーで構成されている。私は4つ授業をとっているので、レクチャーとセミナーを合わせて時間割は8コマ分埋まっている。レクチャーは聞くだけ、セミナーは発表やディスカッションをする場と役割分担されている。

 レクチャーは大体聞き取れる。問題ない。セミナーは、厄介だ。私の通っている大学は留学生が多い。人のことを言える立場ではないのを十分承知で話すが、セミナーで留学生の発言を聞き取るのはとても難しい。ネイティブですら言葉を選んで話してつっかえつっかえになる。こうなると私は細かいことが気になりだしてどうしようもなくなる。likeとか rightとかしょっちゅう挟まれるとその頻度にイラついてしまう。そして、彼らが考えて話していることは参考文献からそのまま取り出してきたような流暢さはないし、教科書を読んで準備できることではないから、私は聞き取って理解して応答を考えなければならない。

 私の考えがまとまったころには、別の人が話している。

 聞き取れることと話を理解することの間には大きな隔たりがある。ちょうど難しい本を読んでいて、目だけが字面を滑っていくのと同じだ。コンテクストを拾い、次の言葉を予想し、今発せられている言葉に自分が賛成するかしないか。それらすべてを一人の人間が話している間につかみ取らなければならない。

 この文章を書いているのは、お察しの通り、セミナーで全く歯が立たなくて悔しくなったからだ。

 とは言っても、全くというのは本当ではないような気もする。

 予習は絶対役に立つ。自分の持っている知識から引き出してきた事例は、セミナーで一番優秀そうな学生も言及していた。ウィキペディアは敵ではない。学派の主な論者は誰か、その反論にはどのようなものがあるか、それをたどる入り口になる。ちょっと探偵が事件の手掛かりをたどるのに似て、心躍るときもある。

 問題が何かを常に頭に残しておくことも、私の強みのようだ。セミナーのディスカッション中に「あれ、今なんか違うこと話してる気がする…」と思いだして3分ぐらいしたところにTAが同じことを指摘した。

 近いのだ。ものすごく近い。もうちょっとで手が届く。

 ブロークンイングリッシュ上々、誰かが話す前に話す。まずはこれだろう。別に前の人があげた論点でなくても、いい視点を持って議論に参加できたら勝ちなのだ。

 予習をもっとすること。今回はリサーチの成果を自分の論点として発言できなかったが、それは論点に選ばなかったのとはわけが違う。

 よい問いを立てること。少しでも論点がずれていると思ったらポイントを押さえた別の、本当に話すべき問を持ち出すこと。セミナーの目的にも沿っているし、何よりTA受けがいい。

 それと、学術世界と現実世界を見分けること。学問では主張は白黒つけて話すことがセオリーだろう。そうすることで論点を明確化し、学問領域として成立するからだ。しかし、実際の世界は灰色なのだ。例えば私はリベラリズム論者がリアリストの外交政策解釈に心の底から反対しているとはどうしても思えない。彼らもおそらくはリアリスト的な解釈をこっそり頭の中で行うはずだ。それを踏まえて問を考えること。あまりにも「あれもこれも」となってきたら、「現実世界はそうかもしれないけど、学問としてこの人が考えたかったのはこういうことだよね。それって現実世界でもそうなっているんじゃない?」と領域をわけつつ話を進めること。

 最後に、自分しかいないからこそ自分を信じること。これまでもずっとそうだったが、勉強していて思うのは、結局勉強は自分でするのだということだ。自分しか自分のためにリサーチしてくれないし、自分しか自分がいい成績をとるために頑張ってくれる人間はいない。だから、自分のことを信じてあげるしかないのだ。自分が持てる力のすべてをもってやれば、リサーチだって報われるという根拠のない自身をもって挑むしかない。

 ということで、ロンドンで一人で勉強しています。

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