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私の苦い青春とホルン(雑記)

この文章は大学三年生の2020年夏頃に、中学から9年続けてきたホルン人生に一段落つけようと思って書き出した、中学~高校時代+少し大学時代の私の人生の振り返りである。

当時公開する勇気が持てなかったことと、書き出していくとまとまらなくって途中で辞めてしまった原稿だ。

2021年6月現在、私は1年間お休みしたホルンをゆるくではあるが再開している。

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【ホルンとの出会い】

私は中学1年生の時に吹奏楽部に入ってホルンという楽器に出会った。

そのとき習い事で通わせてもらっていたヒップホップダンスが周りの子と比べて下手くそすぎてレッスンに行くのが辛かった。その辞める理由作りみたいなノリで始めた部活。

中高一貫で、しかも小編成(部員数30人前後)だった。ホルンパートには高校生の先輩しかいなかった。

当時は年上の人間が大の苦手で、先輩は優しかったけどあまり自分から話しかけにいけなかった。

環境の変化によるストレスで激やせしたっけな、、。(あの頃が人生で一番スリムだった)

初めは音を出すのもすごく大変で、ドレミファソラシドすら吹けなかった。

音楽自体は幼稚園の頃からゆるくピアノを習っていたから音感は少しあったけど、耳で覚えて弾いていたので楽譜は読めなかったし、本当に0からのスタート。

身近にいる先輩を真似して練習していったら、秋頃には少し曲も吹けるようになってきて、どんどんとホルンが大好きになっていった。

初心者は少し練習するだけで劇的な成長を実感できるのでとても楽しかった。

先輩との付き合いがあんまり得意でなかった私は、上手くなれる練習方法をネット・図書館で調べまくった。

毎朝6時半の電車にのって自主的に朝練。加えてお弁当を押し込むように食べて昼練。

同期のクラリネットの子といわゆる「意識高い吹奏楽部員」になって激アツの中1~2時代を過ごした。

【人間関係のごたごた】

中学3年生になったころ、私はホルンパートで一番尊敬する大好きな先輩から無視されたり、楽譜を渡してもらえなかったりなど軽い?いじめを受けた。

私は脳内お花畑マンなので当時自分がいわゆる「いじめ」をされているんだという自覚は薄かったけど、無視されることはとってもキツかった。

私が少し吹けるようになってきて高音域のハイF が出た時、Twitterで自慢げに報告した。そのツイートのリプライで、OBの先輩が私をかなり褒めてくれた。先輩からするとそれが面白くなかったと思う。そういう色々が原因だったのかもしれない。

(後日コンクールの時、手紙で「ゆりちゃんがどんどん上達していくから追い越されないか不安でたまらなかった。全然教えてあげなくてごめんね」と書かれていたので、先輩も高校生とはいえ精神的に発達段階で、色々と葛藤があったのかもしれない)

私は先輩に振り返って欲しくて、さらに楽器の練習に熱が入った。

先輩から楽譜を合奏直前や合奏が始まるまでまで渡してもらえない(事前に譜読みや練習ができなくする)などの嫌がらせを受けた。

逆に初見で譜読みをする能力が身についた。良い訓練だった。(もしかするとそこまで見込んで育ててくれてたのかも)

そして同時期に仲が良かったそのクラリネットの同期ともクラスが別々になったことや、あるときに裏切られ事件があったりして疎遠になった。

そして勉強もクラスで最下位を争うほどにできなかったし、(成績が悪いと部活を辞めさせられるシステムで、退部届を2度も書かされたほど。粘っている内に卒業が来たので結局出さずに済んだけど。)

→ 私は勉強ができないし、他に秀でた特技もない。だから私にはホルンしかない!

【家庭内環境は最悪】

私は生まれてすぐに両親が離婚したので、母はずっとシングルマザーで育ててきてくれた。私が中学に上がるタイミングで母が新しいお父さんと再婚した。

しかし新たな父との三人の生活は上手くいかなかった。

家庭内環境がどんどん悪化して私の心の拠り所はホルンしかなくなっていた。

ホルンに私の全てを注いでいた。

まあ今考えてもそんなに上手くなかったけど、その頃は自分に吹けないものはない!と思う無敵マンだった。

【他の吹奏楽部をみてみたい→まさかの進路変更】

私は中高一貫だったのでそのままエスカレーター式に付属の高校に進学するつもりだったけど、外の世界も見てみたいという好奇心から、近くの高校のオープンキャンパスを調べはじめた。

私は吹奏楽厨だったので、他校の吹奏楽部を見に行くのが第一目的だった。

たまたま晩ご飯を食べながらスマホでサーフィンしていたら見つかったのが、全国大会常連の強豪吹奏楽部がある高校のオープンキャンパスで、日にちを見ると翌日開催だったが、近くにいた母に行ってみたいと言ったらたまたま母も都合があいていたので参加することになった。

申し込みフォームから帰ってきたメールを確認すると、オープンキャンパス的なものだと思って参加したら吹奏楽部のセレクション(入部メンバーオーディション)だった。

こっそりと中学からホルンを持ち出して練習会に参加した。(まだ自分の楽器を持っていなかった)

私は私立の中学校に通っていたけどあまり部活動にお金をかけていなく、冷暖房が一切つかない過酷な環境で練習していたので、(夏は38度でよく人が倒れる、冬は金管楽器すら指が回らなくなる笑)

その吹奏楽部では専属の練習用ホールがあって、クーラーがガンガンにかかっていること、すごく上手い人がたくさんいることに感動して、心がめちゃくちゃときめいた。進学を目指すとその場で決めた。

個別に顧問に相談したけど案の定進学を大反対された。(そのまま高校に上がる予定で育ててきてくれたので当たり前だ)

何となく中学の部活のメンバーに言いづらくて、12月のクリスマスコンサートまで普通に活動に参加して、黙って勝手に引退した。

【初めての勉強】

12月末から馬淵(学習塾)に通って2月上旬の試験まで詰め込み猛勉強。

1月は殆ど学校を休んで、朝11時から23時までずっと塾の自習室にこもっていた。

人生で初めて勉強することに成功して、自分でも勉強するということが可能なのかと感動したっけ。

結果は無事合格。(そもそも推薦で入学だったので入試対策しなくても通ったぽいという噂を後から聞いた)

【色々あったけどみんないい人たちだった】

そして中学の卒業式の日。

同期が吹奏楽部のみんなからメッセージを集めてアルバムにしてプレゼントしてくれた。3年生になってからちょっと疎遠になっていたし、多分誰にも言ってなかったのに知っていて(先生経由でばれた説が濃厚)超びっくりサプライズだった。

まだ私は幼かったので、今さら凝ったアルバム渡したからって過去の裏切りなどの罪がすべて許されると思うなよ!

とひねくれに思った部分はあった気がするけど、とにかく嬉しくて家に帰ってから多分数時間、しばらく毎日眺めていたな、、

【夢の高校生活が始まる】

とにかくホルンを極めるために高校を選び、コンクールメンバーになって日本で一番上手くなるぞ!と希望を胸にときめかせて始まった高校生活。

【いきなり音が出なくなる悲劇】

そして高校に入って早々4月のレッスンでショックな事件が起こる。(私の高校では強豪吹奏楽部だけあってパート毎にプロの先生を招いて指導してもらっていた)

レッスンの先生が「あなた吹き方が変だからそのまま行くと吹けなくなっちゃうよ」と言った。

吹き方(いわゆるアンブシュア)を変えなさいと言われた。

私はホルンについてネットでアレコレ調べていたので、アンブシュアを変えてからダメになってしまったホルン吹きの例を知っていたので、死刑宣告を受けた気持ちになった。

何年もバトルを繰り返して集めてきたカードコレクションがあと少しでコンプリートというところでそのカードを溜めていた大切なファイルを川に落としたような、絶望感に多分近い。

入学早々レッスンで号泣した。

私はその先生の判断を信じたくなくて(スミマセン)

上手い先輩などにも相談したら、「その吹き方やとユリだけベルの角度下がってみんなとそろわんから見栄えが悪くなる。変えた方がいいと思う」

とのことでアンブシュアを変えるしか無くなった私は絶望し、期待で膨らんでいた胸は一気にしぼんだ。しゅーん。

でもアンブシュアを変えることで才能が開花して劇的に上手くなるかも!と気持ちを切り替えて新しい吹き方で練習することにした。

心配症な私は学校に来ているレッスンの先生とは別に、自分でネットからコネクションを作って知り合った新しい先生の元に通ってアンブシュア矯正にミスがないように徹底した。

鏡を見ながら、教本のアンブシュアを真似をしたり、先輩が勧める表情筋を鍛える器具とか自分にできることで思いつくことならなんでも試した。

はじめチューニングの音を出すこともまともに出来ない状態になったけど、1年生の終わり頃にはようやくいくつかの音階が吹けるまでになってきた。

中学では高音域プレーヤー(上吹き)だったけど、アンブシュアを変えてからは高音域が本当に出なくなってしまった。だからまだまだ練習しないといけない状態だったんだけど、

【練習がめちゃくちゃ怖い】

高校2年になってから特に周りの目を気にして「練習」が怖くて怖くて出来なくなってしまった

「練習」が出来ないなんでおかしな話だけど。

全国からセレクションで選抜された上手い高校生ばかりが集まっているので、みんな上手くて、さらにプライドが高い者ばかりの集団だったから結構「あいつは下手だ」とか嫌でも聞こえてくる。

自分も陰できっと言われているんじゃないかと思って不安で吹けなかった。

一人きりで練習したかったけどなにせ人数が200人ほどいる部活で、練習場所も限られていたので常に周りには誰かが居て、ほぼ不可能だった。

朝練にも行こうとしたけど、朝練には特に上手くて意識が高い人(つまり他の部員の巧さを評価するタイプの人間)が特に集まるので余計怖すぎて吹けず、練習に行っても練習にならなかったので夜も遅くまで部活があって疲れるし、習慣化出来ず止めてしまった。

【初めての挫折】

高校2年の初夏。コンクールメンバーを選ぶオーディション。

私は高音域はキツいものの、下のパートならなんとか曲が吹けるまでになっていたので結構メンバー入りを夢見ていた。

特に個人的に通っていたレッスンの先生が私にすごく期待してくださっていて、その期待に応えたかった。

結果は、、メンバーには選ばれなかった。

代わりに、同期が3人選ばれた。その内の1人は中学はトランペットで高校からホルンにコンバートしてきた子だったので、その子よりホルン歴が長いのに自分が落ちたことがショックすぎて結構引きづった。

私の学年は少し珍しく、6人ホルンの同期が居たが半分の3人がトランペットからのコンバートだった。

という訳でホルン経験者でオーディションに落ちたのは同期で私だけ。

それに私は小学校から中学校まで女子校に通っていて男子とまともに会話出来なかったのだか、一緒にオーディションに受からなかった残りの二人は男子で、なかなか辛かった(笑)

というか、ずっと同期女子4人で一緒に過ごしてきたのに自分だけ落ちたのが一番メンタルに堪えた。

まだある、その私に期待してくださっていたホルンの先生、オーディションに落ちましたとメールで連絡したら返事が返ってこなくなってしまったんだよ。(その先生は温和な方でもしかしたら何かの手違いだったのかも知れんけど、、)

このときの事を大学生の今振り返ると、初めての挫折はこの辺かなと思う。プライドはズタボロだった。

それからも頑張って「練習」をしようとしていたけどいつも周りが怖くて小さな音で中低音域ばかり吹いていた。

【勇気を出したけど失敗】

一度気持ちが元気な日にエイや!と思い切ってドキドキしながら、フォルテで高音域を練習していたら、案の定コンクールメンバー入りした上手い同期の一人に「ユリ、そんなに今日荒れてどうしたん?」と心配されてしまった。

荒れているのではなく、今まで出来なかった新しい技術を身につけるために練習していると言えれば良かったのだけど、(練習は出来ないことを出来るようになるために行うものなので、下手で当たり前)

それからすっかりまた萎縮してしまい、目立ってしまうような練習は全く出来なかった。

その同期も悪気が合った訳ではなく、きっと本気で心配してくれて、なんなら相談にも乗ってくれようとしたのかも知れないけど、当時の私にはそこまでくみ取れるほどの余裕はなかった。

あとコンクールメンバーとそうでないメンバーとの間にはどうしても心の溝が出来てしまう。

コンクールシーズンの練習のメニューが違うだけでなく、次のメンバーが選ばれるまでの1年間、パートの中では上手いと認められた者と認識され、結構声が大きくなれる。

つまり、選ばれざる者は選ばれた者に従うしかなく、肩身が狭い思いをする。

3年にもなると、優秀な後輩もたくさんメンバーに入るのでパートでの肩身はオマルくらいになる。

【自分だけ役職なし】

ホルンは大抵の楽譜で1番から4番までのパートに分かれていて、1番3番が上吹き。2番と4番が下吹きに値する。私の高校はホルンだけで約20人在籍していたのでそれぞれのパート毎にトップなるポジションが存在する。

このトップは3年生が担当するので6人の同期で4人が1番~4番のどれかのトップを担当することになる。それから、マーチング(行進しながら演奏するパフォーマンス的なもの)のリーダー(通称マーリー)というポジションも存在して、これらは一個上の先輩が決める。

私は高音域は吹けなかったけど、その分中低音域に多くの練習時間を割いてきたので少し自信があって、4番のトップに選ばれるかと思っていたら選ばれなくて、マーリーに選ばれるかという噂もあってドキドキしていたけどこれにも選ばれず、結局何にも役職を担当していないのは6人の同期の中で私だけになってしまった。

最後のコンクールのオーディション、モチベーションは砂のようだったけど一応1ミリの期待を持って受けた。落ちた。(3回目)

それから私はCメンに入った同期から完全に戦力外として扱われ、同期同士のトップ争いなどのシビアな問題が起こると私によく相談してきたりした。

泣きつかれもしたけど、後になってよくよく考えたら泣きたいのは私の方だったよなあ。

【ヤケクソで勉強しようとする】

結局コンクールメンバーオーディションに落ちてから、やっぱり自分には勉強しか無い!勉強はやればやるだけ成果が出る!と気持ちをシフトさせて

吹奏楽部のほとんどは吹奏楽推薦や指定校推薦で進路を決めるけど、私は一般受験しようと決めた。

このとき偏差値45くらい(笑)

でも京橋の駅に立って無料で占ってくれるおじさんに占ってもらったら背中を押してもらえたので京大にいけるって思ってた(笑)

東進に行って入塾前に模試を受けてからも、東大か京大を目指します!と言ったら鼻で笑われて馬鹿にされた。悔しかった。

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ここまでで過去の私が残した自伝が終わっている。

まあ少しだけ続きを書いておくと、そこから紆余曲折あって結局東大・京大は受験するのを辞めた。現役ではさすがに現実身が薄かったし、浪人してまで目指そうと思えなかったためだ。(コンクールメンバーオーディションに破れてヤケクソだったために潜在意識的にはホルンから逃げる口実にしたかったのだと思う)

AO入試で関西大学の希望していた学部に運良く無事入学できた。

たまたま見つけて参加をした8月末の大阪大学の遺伝子組み換え実験実習に参加をしたこと(これもAOの一次審査の書類提出〆切の1週間前とかで何もかもギリギリだった)が合格の可能性を高めた気がする。

高校三年の10月27日に合格が決まって、11月2日のステージマーチングパフォーマンス付きの全国大会(吹奏楽連盟のものではない)に急遽欠員がでたので3日で振り付けを覚えて出演するという奇跡を起こしたり色々やった。初めて自分の可能性を感じたね笑

現在大学では高校の時に勉強していなかったツケが来て、そこそこしんどい思いをしているけれど、楽しく色々なことに挑戦して大学生ライフを満喫している。

高校の時の三年間コンクールメンバーオーディションに不合格だった悔しさから、ホルンに未練たらたらと大学でも続けてきて、二年生までがむしゃらに頑張った。

それなりに高音域も克服しつつあったけど、学内の部活でも勝負にならないほど、まだかなり下手だった。(下吹きとしてはそれなりに認めてもらえたが)

あるとき、高校の時の友人(大学では音楽を辞めていた)が楽器を購入した話を聞いた。

部活や団体にも入っていないのになぜ??と理由を訊ねると、

「楽器を演奏するのが楽しいから」

と友人は答えた。

それからホルンを演奏することを心から楽しんでいない自分に気づいた。

ショックだったけど、私は「絶対にホルンが上手くならないといけない」という自分ルールに縛られて、苦行を行っていたんだ。

それからホルンとしばらく距離を置くことにした。

唯一長く続けていたもので、自分の代名詞であるホルンを辞める決断は不安が大きかったけれど、コロナ禍を言い訳にして一旦辞めて、クールタイムをもうけた。

一年経った今、その選択は大正解だったと思う。

なぜなら、「私はホルンが大好きだ」ということを思い出すことができたし、ホルンを辞めていても潜在意識には常にホルンが頭にあって、体の使い方を色々研究できた。(ヒップホップダンスに再挑戦したり、絵画や声楽に挑戦した。自分の心を観察&分析して心のブロックを溶かしたり、ランニングをしたり、仏教のヨーガ行者の本を読んで自分の体を観察したり色々やった。)

結果、久しぶりにホルンを演奏している今、楽しくてしょうが無いし、何なら以前より音がのびのびと輝いている気がするんだ。

お世話になった先生たちには連絡を取ることすら申し訳なくって、なかなか修復できていないけれど、今度ちゃんと色々を報告しようと思っている。

そんな私の人生。自己満足で書いた読みにくい長い文章をここまでたどり着いた人がいるかわからないけれど、読んでくれてありがとう。まだまだ発展途上の私をこれからも温かく見守っていてくれたら有り難いです。

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需要とか関係なく、自分が自分の歩いた軌跡をいつでも振り返られるように、人生のどこかでまた振り返って一冊の本にまとめたいなと思う。






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