第三者としての自分
マーケティングでも広告でもTwitterでも、「ペルソナ」の設定が大事だと言われる。
ペルソナとはマーケティング用語で、ユーザー像のこと。めちゃくちゃ平たく言えば、「どんな人に商品(情報)が届いてほしいのか、なるべくリアルに・具体的に想像し、設定すること」だと思う(業界・業種によって微妙に出てくる文脈違いそうだけど、今回のnoteはこの説明でいきます)。
Twitterやnoteのアカウントを運営(運営っていうほど大げさなもんでもないけど)するにあたって、じつは私はペルソナを設定していない。
いや、設定してないというのは正しくなくて、じつは「自分」をペルソナにしている。さらに言うなら、それは「もう一人の自分」だ。
けっして自分自身を過信しているわけではない。その逆だ。私みたいな人はいくらでもいる。鋭い嗅覚があるわけでもないし、とがったセンスの持ち主でもない。写真や文章の好みも、とくべつ玄人寄りという訳ではない。
だからこそ、もう一人の自分にウケれば、それはすなわち一定の人たちにも響くと考えられる。
そう考えて、写真や文章をSNS上にアップするときは、アナザーぽんずが「いいんじゃない?」と言いそうなコンテンツを作るように心がけている。
自分のタイムラインを、ちょっと距離を置いてみて、もう一人の自分がどう思うか。フォローしようと思うのか、「クサすぎない?」と思うのか、はたまた何も感じないままスルーするのか。
言い換えると、他人のタイムラインを眺める気持ちになって、自分のタイムラインを見ているのかもしれない。
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こういうところが、SNSの醍醐味だと思う。
「ペルソナは私で~~す」なんて、おそらく会社の仕事じゃ許されない。
事業としてモノをつくって売るとなったら、明確な数値目標が要る。ペルソナ1つを設定するにも、裏付けやデータ、過去の実績などが欠かせない(すべての事業で、とは言わないけれど、少なくとも私が今まで携わった仕事では必要とされてきた)。事業の規模が大きければ大きいほど、それは致し方ないことだとも思う。そのやり方を決して批判したいわけじゃない。
だけどたまに、なんの数値的裏付けもないけれど試したい仮説というのは生まれる。そんなとき、SNSなら自分ひとりの仮説と分析で実験ができる。しかも何度でも。
誰の機嫌もうかがわず、誰の承認も取らず、自分ひとりで仮説を立てて、実行して、検証して、もう一度チャレンジしてみることができる。いい時代に生まれたもんだ。
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余談だけど、ここ最近の私のタイムラインを見たアナザーぽんずの反応です。
「最近のnote、なんか八方美人感あるよね?批判とか見当はずれな反応がこわいからって、とりあえず置きにいって誤魔化してる感~~~!」
我ながら、けっこう意地悪である。
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