誰のことも削らず、削られず
大好きなドラマ「獣になれない私たち」のシナリオブックを読んでいる。タイトルは、巻末にあった脚本家の野木亜希子さんの言葉から。
誰のことも、削らない、削られない。その両方が必要だ、と切に思う。
「削られない」ことが大事なのはもちろんだけど、つい、「(自分以外の人を)削らない」ことに対しては気をぬいてしまいそうになる。
中学生くらいまでは委員長タイプだったので、よく学級委員とか生徒会員とかをやっていた。ちょうど中学二年生くらいのころだったろうか。三者面談のとき、ちょっと引っかかることを言われた。
「ぽんずちゃんは、よくがんばっています。ぽんずちゃんの主張はいつも正論です。正論・・・うん・・・だからこそ、ね」
(ん・・・?なんでそこ言い淀んだ?褒めるとこじゃないの?)
褒めてもらえると思っていたわたしは、予想外の言葉にちょっとめんくらった。面と向かってその真意を問うこともできず、疑問に思い続けたせいで、その後もずっと覚えていた。
大人になって、やっとわかった。
あの先生は、「正義」を声高にさけぶわたしを心配していたのだろう。
「静かにしてください!!!!」
「宿題はちゃんと提出してください!!!」
「あいさつしましょう!」
「募金をしましょう!」
当時のわたしが、本当に心のそこから「あいさつはいいもんだ」と思っていたかというと、そうじゃなかった。
「あいさつせよ」というフレーズは中学というちいさな社会において完全に「正義」で、誰も反論できない。そうとわかっていたから、大声で叫んでいたのだ。叫べる立場にいることが嬉しくて、自分の掛け声で誰かが動くのがうれしくて、人の上に立ったような気がしていたのだ。
もちろん、当時はそんなふうに意識していたわけではないけれど。
・・・
時はながれ、今はSNSが生活の一部になっている。SNSは夢があるし、今の私はSNSに支えられている。だけど同時に、強く激しい言葉のほうが市民権を得やすい場所だとも思う。
正義を叫ぶのは気持ちよく、強い言葉で人を非難することにも中毒性がある。
noteを読んでくれる人も増えて、実生活じゃ誰も聞いてくれなかった言葉を、SNSでは共感してもらえてたり、励ましてもらえることに幸せを感じている。
でも、だからこそ。気をつけなきゃいけないんだと思う。強い言葉で、人を削らないように。自分の陶酔と引き換えに、誰かの心をえぐらないように。
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