鑑賞とコラージュの授業 (長崎大学)
5月のことになりますが、長崎大学で非常勤講師として教養科目で芸術の授業をしてきました。
授業の内容はアート作品の鑑賞と、実技でコラージュのワークショップ。
ここ数年、芸術科目の授業を担当させてもらっていますが、今年はコロナ禍以降の久しぶりの対面授業。
授業を受けたのは、経済学部、多文化社会学部、薬学部、水産学部の学生さんたち。
私が最近専門とする乳幼児教育とかアート教育とか・・・もしかするとあまり興味がないかもしれないので、アートがビジネスの分野や社会の諸問題にどんな風にアプローチできるのか、活用事例も含めながらの授業構成にしてみました。
鑑賞の授業は、VTS(Visual Thinking Strategies)の手法で、対話型鑑賞を。
鑑賞したのは、フェルメールの《牛乳を注ぐ女》と、ゴッホの《星月夜》。
気づいたことや考えたことなど意見を言ってみましょうと言っても、大人数だし挙手はしずらいかと、
バンバン当てると、学生さんたちはどんどん意見を言い(みんな、言えるんです!)、その繰り返しであっという間に終了時間に。
授業後のレポートを見ていると、
授業を通して「1つの作品を見ていても、人によって本当に色々な感じ方、捉え方、意見や考えがあるのだと分かった」というような感想を、本当に想像以上にたくさんいただきました。
確かに、私もVTSによる鑑賞をする際、いつもそのように感じます。
しかし、考えてみると、今回の授業に参加した面々は、例えば「同世代の大学生」「教養科目で芸術を履修している人」というように、一括りにカテゴライズされる集団といえます。
そのようなメンバー構成であっても尚、参加者は、それぞれに、感じ方や考え方が「違う」と感じている。そして、同時に「(違うからこそ)面白い」と多くの人が感じていたのも印象的でした。
それを踏まえて、レポートの講評の一部に、こんなメッセージを書きました。
・・・
ひとつ想像してみてください。
もし、今回と同じような作品鑑賞の授業を、もっと多国籍なメンバー構成で、しかも子どもから年配の方々まであらゆる世代、多様な職業、多様なジェンダーの人々で集まって実施してみたら。
きっと、さらに「違う」と感じるのかもしれませんし、案外「同じ」だと思うこともあるのかもしれません。
つまり、私たちが生きている社会は、そういう場所なのですね。
ある方が「多様性の授業に使えそうだ」と、レポートに記してくださっていましたが、私も同感です。
・・・
続いて、コラージュの授業では、自分自身と向き合う時間に。
初めてコラージュをする人も、そうでない人も、限られた時間の中でいくつかのテーマにそって制作をしてもらいます。
瞬発力のようなもので、一気に制作する。
そしてそれを、同じ授業を受けているクラスメイト(他者)に向けてシェアする。
それを2セットほど(目が回ります)。
教養の科目なので、一方的に授業を受けていたらコミュニケーションをとることもない人たちに、自分の内面が反映されている(かもしれない)作品をシェアするのって、少しドキドキしますが、
そういう時間があっても良いんじゃないかと。
「大して知らない人と話す」「自分のことを話す」「共感する」「共感してもらう」
そうすると、
少し強面の男子が、案外チャーミングだったり、
おとなしそうな印象の子が、前衛的な作品を作っていたり、
髪が青色の子が、少しレトロ・ノスタルジックな世界観で表現していたり・・・
ギャップが素敵だなと、個人的に感じる時間でした。
感想では、「お互いのことを知る機会になった」とか、「自分と向き合う時間になったとか」。
私がいつもアートのワークショップをする時、
「自分とつながる」ことと「人(他者)とつながる」ことも大事にしているので、それが伝わって良かった、と感じた次第です。
おそらく今回の授業で会った学生さんたちには、きっともう会うことはないのだと思いますが、
何か少しでも「揺さぶり」の機会になったのなら、本望です。
普段、未就学児や小学生を相手にアートのワークショップをすることが多いので、
たまに若い学生さんたちと会うと、色んなことを感じたり考えたりさせられて、良い勉強の機会になります。
ありがたい限りです。
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