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視点を「自分」から「子ども」へ

6月から8月の頭まで、すごくもやもやしながら仕事をしていた。

というのも、3月まで働いていた保育士さんが6月から戻ってきたからだ。この保育士さんはまた厄介な人であった。

支援に対する考え方が全く違い、こちらの思いを理解する気さえなかった。
児童発達支援に通う、未就学の子を担当していたが、必要な支援も活動もせず、私たちに丸投げ状態だった。その子が来るまで時間もあり、いろいろ話を聞いていたにも関わらず何も準備をしていなかった。
放デイの方にも入っていたが、余計な支援が多く、それを伝えても状況は何も変わらなかった。
子どもの前で平気で「あなたはいい子」「あの子は狂暴で悪い子」などと言っていたことや、余計な一言で傷つく子もいた。

もやもやしながらも、子どもたちの心のフォローをしながら、何とか仕事をしていた。
私も気疲れして、正直精神的にしんどかった。

そんなとき、私にとってその人を軽蔑する決定的な出来事が起きた。

その日は、カンカン照りの晴れの日であった。午前に公園に行く予定だったが、子どもたちの安全を考えて、室内遊びに変更していた。
子どもたちからは「公園行きたいよ~」という声が出ていた。しかし、熱中症になる危険がある中で外にだす、は安全管理としてよくない。それに、子どもたちにも、この暑さで外に出るのは危険であること、熱中症で死ぬこともあること、などを知ってもらう必要がある。これも私たち支援者ができる、支援の一つである。一つずつ、説明し、子どもたちを納得させるのも、支援者の仕事だ。
子どもたちが分かる言葉で説明したことで、納得し我慢する子がたくさんいた。我慢したことを褒め、「もう少し涼しくなったら公園に行こうね!」と公園に行ける天気を教えた。

しかし、その人は担当する未就学の子を公園へ連れて行った。未就学の子がうるうるした目で上目遣いで行きたいって言ってきたからと。

ありえない。
こんな暑い中外にだして、殺す気か?と。
上目遣いしようが、うるうるした目でみてこようが、こういう理由で行けないんだよ、とその子が理解できる言葉で説明する義務が私たちにはあるし、それが仕事なのに。


行けないよ、と言って、機嫌が悪くなったり、荒れたりする子もいる。でも、それは仕方ないことだ。それを恐れていては、この仕事はやっていけない。
暴れて「自分」が困るから、ではなく、またこのようなことがあったらこれなら行けないねと「子ども」が理解し納得できるようにするため、それが仕事だ。

その人はいつも「自分が」「自分が」であった。ずっと感じていたもやもやはこれであった。
結果的に、その人は自分はいじめられたとよくわからない被害妄想を膨らませ、退職していった。人が減り体力的にはまあまあしんどいが、精神的にはすっきりしている。

私は、自分が大変だから、ではなく、子どもたちの成長のためにいろいろ考えて動ける方と一緒に働きたい。今いる職員はみんなその考え方である。そして、これから来るであろう職員の方もその考えであってほしい。

初めから専門的知識なんて、いらない。
知識は後からついてくる。
視点を「子ども」において、行動すること。
これが私はとても大事だと思っている。

これは私の仕事においてのポリシーである。