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同じクラスのオナクラ嬢 第36話

 記憶の中の母の姿は、苛々しているものが大半を占めていた。
「また、帰ってこない……!」
 爪を噛みながら、母は忌々しそうに、壁時計を睨みつけている。
「また、あの女のところに行ったんだ。許せない。許せない。許せない」
 トイレに起きてきた私に気が付くと、母は優しい顔になり、「どうしたの、友里?」と私を手招きし、軽く抱きしめて、友里は私に似て美人さんだねえ」と頭を撫でてくれた。まるで、さっきまでの表情は、私が見た幻だったかのように。
「ねえ、友里。明日、お母さんと出かけようか?」
「……うん! 出かける!!」
 嬉しかった。
 休日に、母と遊びに行くなんて、最近はずっとなかったから。
「紫乃も一緒?」
「紫乃は、お父さんに見ていてもらおう。だから、明日は、お母さんと友里で、ふたりでデートしよう」
「デート!! する!!!」
 母は、ふふと上品な笑みを浮かべ、また、私の頭を撫でた。
「じゃあ、今日は早く寝て、明日に備えましょう。お母さんもね、明日、頑張るから」
「……がんばる?」
「うん。相手の女のところに行って、直談判、してこなきゃ、ね」
 その時は、母の言っていることが、幼い私には理解できなかった。

「約束、して欲しいんだ」
 唐沢晶さんは、私の目をまっすぐ見つめながら言う。
「もう、二度と正には会わない。もう、二度と正とは関わらないって」
 じんじんと頬が痛む。唐沢さんにビンタをされた箇所が熱を持っている。鼻血も出ているせいか、少しだけ呼吸もしづらい。
「会わない! こんなことしてくる女の彼氏になんて、こっちだって会いたくもない!」
 私の隣で、鏡花が泣きそうな顔をしながら言っている。
「え? 名越さんには聞いてないんだけど」
 唐沢さんが苦笑した。
「まあ、でも。名越さんにも会ってほしくはないかな。往生際悪い行動取られても嫌だし。ちゃんと自覚してくれよ。散々、正にキスした癖に、振られた女だってこと。もう変な気は起こさないでくれると助かる」
 鏡花がぎりっと歯を強く噛む。
 ああ、そうだ。そういえばさっきもそんな話をしていた。
 鏡花が、正くんに、キスをしたとか、そんな話。
 あれって、どういうことなんだろう。
 だって、鏡花は――。

――もしもそれが好きっていう感情なら、うまくいくと良いね。友達として、応援してる。

 鏡花は、私のことを、応援、してくれていた、はずなのに。
 あんなことを言っておきながら、裏では、正くんと、そういうことしてたってこと?
 信じたくはない。でも。もしもそれが本当なら。

――名越さんとふたりで、そうやって僕のことからかって……!
――いつもふたりで僕のこと馬鹿にしてたのか!? もう信じられない!

 昨日の、あの時。
正くんが怒りだした理由。その背景。それらに、すべて、説明がついてしまう。
 ああ、なんだ。
 そうか。
 そうだったんだ。
 ごめんね、正くん。
 だとしたら、そう思うのも、無理はないよね。
 でも、違うよ。
 本当に馬鹿にされてたのは、君じゃなくて、私の方だったんだ。

――なんだか、私が良いかもと思う人って、みんな好きな人がいるんだよね。
――ねえ。不思議だねえ。

 なに、それ。
 今までも、そうだったってこと?
 私がちょっとでも良いなって思った男性を、鏡花が――。

「とにかく、私たちはもう会わないから! それでいいでしょ! 行こ、友里ちゃん!」
 私の腕を掴む鏡花の手を、振り払うようにした。
 鏡花は、そんな私の行動に、唖然とした表情をしている。
「……のに」
「えっ……」
「大事な友達だって、想ってたのに……!」
 言いながら、ぽろぽろと涙が零れてくる。
 唐沢さんにビンタされた時よりも、ずっとずっと、心がずきずきと痛んでいる。私を変えてくれたのは鏡花だった。鏡花と出会って、世界に色がつき始めた。そんな鏡花との尊い記憶が、大切な思い出が、黒く、黒く塗りつぶされていく。
「友里……ちゃん……?」
 そこで鏡花は、はっとして、慌てたように身振り手振りを大きくしながら言った。
「ちがっ……! 違うの、友里ちゃん! 待って! 誤解だよ!」
「なに、が、誤解なの……?」
 うまく喋れない。感情が、言葉を吐き出すのを邪魔する。
「応援してるとか、言ってた癖に、私のこと、馬鹿にしてたんだよねっ……!?」
「ちがう!! 馬鹿にしてなんかない!! そうじゃない!! そうじゃない、けど――」
「知らない!! 鏡花なんて、大っ嫌い!!!」
 鏡花の見開いた目が、左右に泳ぎ、揺らぎ、そこに涙が溜まっていく。
「あ、私……えっと……」
「もうやだ。鏡花の顔、見たくないよっ……」
「――――っ!!」
 私の言葉に、鏡花は、身体の向きを変え、鳥居側から市街地の方へ駆けて行ってしまう。
「えっ、あっ、名越さん!? おいおいどうすんの!? 追いかけなくていいの!? 誰が!? あたしか!? でもここでヤンデレとメンヘラをふたりきりにするのもまずいだろ!? 困った!!!」
 神永さんが何やらとても取り乱している。
「なんか勝手に仲違いしてるとこ恐縮なんだけど」
 面倒そうに、唐沢さんが溜息をつきながら言った。
「聞かせてよ。答え。もう二度と正に会いませんって。言えよ」
 その言葉が、瞳が、とても冷たくて、夏だというのに背筋を冷えたものが流れる。
 もう二度と正くんに会わない。
 そう言うのは簡単だ。
 ただ言葉に出すのは、数秒で終わる。
 でも――。
 ふと、瞬間的に、遠い記憶が蘇った。
 まだ私が幼かったころ、母が、「明日はお母さんとデートをしよう」と連れて行ってくれたところがあった。
 それは、父の浮気相手の家だった。
 もう二度とうちの旦那と会わないって約束してください。
 そう詰め寄った母に、向こうの女は、なんと答えたか。
 あれは、確か――。
「ごめんなさい」
 私の言葉に、唐沢さんはどこか得意げにふんと鼻を鳴らした。
 けれど。
「無理です。好きになってしまったので」
 続いたその言葉に、瞳孔が大きくなり、その瞳で私を睨みつけた。
「は? なに? なんて言ったの今?」
「だって好きになっちゃったんだもん。仕方ないじゃん」
 唐沢さんの奥で、神永さんが口をあんぐりと開け、顔を青くしているのが見えた。
「だめだこいつ。決めた。今消す」
「ま、待って待って唐沢さん!!! ストップ!!! ストッピング!!! 拳下ろして!!! 平和的解決!!! ノー武力行使!!! 憲法9条!! 憲法九条友里!!!」
 神永さんが、後ろから唐沢さんのことを抱きかかえ、抑え込んでいる。
「唐沢さん必死過ぎない? そんなに自信ないんだ?」
「はぁ……?」
「正くん、可哀想。唐沢さんみたいな男女に好かれて」
 唐沢さんの動きが止まる。
 ふっと鼻で笑ったかと思えば、肩を小刻みに揺らし、「あはは」と声に出して笑った。
「ほんっと……ムカつくね、九条さん!」
 そう言う唐沢さんの顔は、笑っている。
「いいよ、じゃあ、正に聞こうか。私とお前のどっちが好きなのか。直接。聞けばいいじゃん。行こうよ。正のところ。見せてあげる。今、正がどうなってるのか」
「いいの? 唐沢さん、正くんから直接私の方が好きって言われたら、傷ついちゃわない?」
「ははは! 言ってろ馬鹿!!!」
「え、もうあたし帰っていいですか……?」
「行くよ、神永さん」
「行こ、神永さん」
「マジか……嘘だろ……」
 私と唐沢さんと神永さんの3人は、正くんの家に向かうことになった。
 もうどうなったっていい。
 大切な親友をひとり失ったんだ。
 好き勝手にやってやる。
 この恋を、中途半端には終わらせない。
 どっちになるにしても。
 ちゃんと、終わらせてやる。

「無理です。好きになってしまったので」
 それは、母にとっては予想外の言葉だったらしい。
 呆然とし、言葉を失っていた。
「話は以上ですか? では、お帰りください」
「なんで、なんとも思わないんですか?」
 母は、信じられないものを見るような目で相手の女に訴えかける。
「家族が、いるんですよ?」
 そう言って、母は、隣に座る私を引き寄せた。
 こうやって見せつけるために、私を誘ったのだ。私は母とどこか楽しいところに行けると思っていたので、とても悲しい気分になる。
「ひとつの家族を、壊すことになるんですよ? どうして平気なんですか?」
「まずは旦那さんにそれを言うのが先では?」
 言って、相手の女は、誰かの名前を呼んだ。
 部屋の奥から、ひとりの男の子が入ってくる。私と同い年くらいに見えた。
「私の息子の、タダシくんです」
「はい……?」
「私と、あなたの旦那さんの、子供です」
 母の動きが止まる。
「ああ、やっぱり、何も言われてないんですね」
 相手の女は、哀れむような、勝ち誇るような、悔しいような、なんとも言えない顔をしていた。
「別に、養育費を貰っているわけでもないですし、それをねだるつもりもありません。この子の存在があるだけで、それで十分。この子は、私とあの人の、愛の形ですから」
 母が、口許を手で押さえる。何かこみあげてくるものがあったらしい。
「えっと、ユリちゃん、だっけ?」
 相手の女が、私のことを見てにっこりと微笑んだ。
「きょうだいになるから、タダシくんと仲良くしてね」
 私には、言っている意味がよくわからなかった。
 それは向こうの子も同じようで、きょとんとしている。
「やめてよ。うちの子に近づかせないで」
 母は立ち上がり、私の腕を引いた。力が強く「痛い」と声を出してしまう。
「交渉決裂。帰るわよ、友里」
「旦那さんに、よろしく伝えておいてくださいね」
 女の言葉に、母の額に血管がはっきりと浮き出る。
 振り返ることなく、母は、地の底のような声で言った。
「……絶対に、あなたの家庭を不幸にさせてやるから」
「楽しみにしています」

「ちゃんと、終わらせてやる」

 言って、母は、歪な笑みを浮かべる。
 相手の女の子供は、何も考えていないのか、間抜けな顔でぼーっとしていた。

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