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春の雨

雨が、心地よい日だ。

私の場合、気分にあわせて、時々そういう日がやってきて、そんな日にはどうにもこうにも、柔らかいものやあったかいものに触れたくなる。

今日も、あたたかくてふわふわしたミルクチャイをゆっくり飲んでいたら、ふいにやってくる「気持ちの蓋が開く」現象が起きて、普段は気付かない(忘れかけた)まま過ごしている感情が湧き上がってきて、今までの人生で選んできたものや手放してきたもののことなんかをぼーっと思い返していたら、あぁ、私、もうすぐ26歳になるんだな、と思った。

あと10日で、26歳になる。26歳というと、なんだか随分と大人のようだ。自分のことなのに、どこか他人事のように感じてしまう。


大学生の前半くらいまでは毎年、誕生日を迎えることが楽しみで仕方なかった。大人になったら許される様々なことが、キラキラして見えて、もうすぐ行ける憧れの世界にわくわくしていた。その憧れだった場所に身を置くようになったわけだけれど、いつからか、歳を重ねることを少しだけ怖く感じるようになっていた。

それは、「〇〇歳になったらこんな感じで…」と、自分の人生が理想のとおりに進むことを微塵も疑っていなかった頃に描いた理想の自分に果たして私はなれているのだろうかという不安と、諦めるにはまだ早いし、そもそも私の人生諦めたくなんかないという気持ちと、はたまた、とはいえ大量のエネルギーを自分だけに注いで生きるには、ちょっと大人になりすぎたのかもしれないという最近の気付きが、ぐちゃぐちゃに混ざった結果生まれている怖さなのだと分析している。

こうやって、自分のことを客観的に分析して、妙に納得するのは、私の癖のひとつだ。自分という存在の在り方を、常に考えている。息をするように、ぶくぶくと。それはときに苦しいが、こういう人間だ、やめようと思ってやめられるわけではない。せっかくだから人生の中で、考えることを生かせたらな、と思うようになった。どんな方法でなのかは、まだ、よくわからない。

方法がわからないけれどこういうことがしたい、というものは、「考える」以外にもある。「感じるを尊重する」ということだ。

「感じる」を強く意識するようになったのは大学生の頃で、獣医学生として、動物の生と死や、人と動物の関係性、獣医療と向き合うほどに浮かび上がってきた獣医という職業が内包する矛盾(この矛盾についてはまたそのうちどこかで書きたい)、そういうことをずっと考えているうちに、出口のない禅問答になんだか疲れてしまった時期があった。色んなことを感じるから、それらについて考えるわけで、感じなくなれば考えなくて済む。けれど、感じなくなるというのは、自分の人としての感性がどんどん黒い何かに蝕まれていくようで、それが私はとても怖かったんだ。人が人じゃなくなっていってしまう気がして。

そのときから、感じて、考えて、生身の人間らしく生きようと決めたんだ。

でも、そうやって無防備に生きていると、やっぱり傷つくことや考えすぎて苦しくなっちゃうことがあるから、感じて、考えて、それでも健やかな心を保てるように、そうあれる何かを世に提示したいと思ったんだ。今は、その方法を探しているんだ。


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