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Green book

公開前に予告を見て気になっていた映画「Green book」が、つい先日アカデミー作品賞を受賞したと聞いて、これは(!)と思い、観に行った。

結論から言うと、とてもよかった。
「良い映画」だ。

観ている間を通して、色んな考えが浮かび続けた。

尊厳や品格は大切で、それを貫く勇気が人を変えることもある。それと同時に、そんなに簡単に人は変われない。そして、変わらないという選択をしている人の多くは、自分には原因がなくて、自分には変わるという選択肢はなくて、「現状」がその土地や歴史や文化に根付いたものなのだと信じているんだな、と感じた。
もっと平たく言うと、自分が変わらない理由を、自分の外に探して、変わらないことを正当化している。

「仕方ないよ。ここ(deep south)はそういう地域なんだから。」という発言が映画の中で何度もあった。確かに統計的にみれば、北部と南部で違いはあろう。(大きいんだろうな…。) だけど、その仕方ないよに対しての返し、「北部でだって同じ目にあったことがある」というセリフがあれほど刺さったのは、どこにいるかで決まるのではなくて、そこに住んでいる人 個人個人がどういう選択をするかなんだ、ということが事実として一事例として、明確に示されたからなんだろうな。

もうひとつ、人間をグルーピングするということについて。
white/coloredに限らず、人をグルーピングすることは、(研究するときなんかはわかりやすいけれど)、個人を見失う怖さと隣り合わせ。

個人って、私たちが思っているよりずっとずっと多様で、ひとりの人間の中には、例えば愛と憎悪、信念とcheat、意志と諦め、そういう矛盾したものたちが共存している。どちらかが本物 どちらかが偽物の自分というわけではなくて、人間はたぶん矛盾を持ち合わせている存在なんだ。

だから、複数あるグループのうちのどれかに、とある個人がぴったりと当てはまることなんて類い稀で、グループの特徴=そのグループに属する人の特徴とならないことだってよくある。

だけど、ステレオタイプという言葉が浸透した現代でも、グルーピングから派生するステレオタイプの影響力は今も根強い。さらに言えば、本人は無意識に影響されているから、なかなかなくならないんだろうなと思う。

気づいていないだけで、私だって日常のなかでたくさんグルーピングしているのだと思う。言葉、教育、能力とかさ、、
自分にとってのスタンダードは、自分が生きている世界の(一見多様そうで)極めてhomogenousな集団のスタンダードでしかないんだよなぁ。一歩外に出たら、全然違う。
それは本当はめんどくさいものでも確執を生むものでもなくて、とても美しくて、当たり前に尊重されるべきことたち。

自分とは「違う」ということに本能的に恐怖心を抱くのは、おそらく生物としては自然なことなのだろうから、教育や経験を通じて、あなたと私の違いは美しい、多様性に溢れたこの世界は美しいって思えるようになることが重要なんだろうなぁ。

と、そんなことを感じたよ。

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