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ドネツクでテロリストに屈辱を与えられた女性イリーナ・ドヴァンが自身の試練について語る

Euromaidan Press 2014年9月1日の記事の翻訳です。

テロリストによる監禁から解放された直後、ウクライナの国旗に包まれ、ドネツクの広場のポールに縛り付けられた写真が『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載されたイリーナ・ドヴァンは、亡命中のロシアの人権活動家で受賞歴のあるジャーナリスト、オクサナ・チェリシェワと電話で話した。彼女自身の言葉で語られた試練の物語をお読み下さい:

「お願いだから、このポールの写真は、私が経験したことに比べたら、たいしたことではないと伝えて欲しい......コメントに目を通したけれど、みんな『彼女はウクライナのシンボルと一緒に出てきた英雄のようだ』とか、『彼女は縛られていないから、これは全て演出だ』とか言っている......みんな、わかって欲しい: あなたを縛る必要
がなかった様に、私を縛る必要もなかった事を! 20数発の機関銃を向けられて立ったまま「じっとしてろ!この恥知らず!」と怒鳴られていた。このポールが私の支えだったから、私を縛る必要がなかった。どうか、このことを(みんなに)話して下さい。」

実際のところ、イリーナはウクライナのシンボルを掲げてどこにも出て来ていない。しかし、彼女は親キーウ派の意見を隠しているわけではない。彼女はボランティアだった。彼女はATO(対テロ作戦)部隊のために資金を集めていた。食料も届けた。彼女はこのことを黙っていた。しかし、残念なことに、彼女はある旅行中にタブレットで写真を撮った。このタブレットは、ヤシヌヴァタ出口の道路封鎖を警備していた人々の手に渡った。そして、イリーナの夫ローマンと娘のために小包を運んでいた男は、ドネツク人民共和国の「支持者」であったにもかかわらず、ひどく殴られ、タブレットの持ち主が誰であるかを告げた。

イリーナは先週の土曜日[訳者注:2014年8月23日]、家の隣の庭にいたところを襲われた。合計8人の武装した男達が家に入ってきた。「彼らに殴られて、後先考えずに全てのコードとパスワードを教えてしまう......」イリーナのタブレットには、1万4000フリヴニャが使われた報告書と、そのお金を寄付した人々のリストがあった。「この人達のほとんど全員がその時までにドネツクを去っていたのですが、一人だけ、去ったかどうか定かでない女性がいました。だから、彼女の名前を見落とすまいとあらゆる努力をしました。」

「彼らはそれを察知しました。彼らは私を、あのババイ(夜の怪物)を含む20人程のオセチア人のいる部屋に連れて行きました。彼は私の周りをぐるぐると回りながら、これからどうやって私を思い通りにするつもりか、生き生きと語り続けました。ズボンのジッパーを下ろし 、彼は私のTシャツをまくり上げました。そして彼は”彼女は本番をするには、もう旬を過ぎている。ただし、フェラチオをさせるかもしれない......“と言いました。」

「私は何も言っていないのに、彼らのうちの1人の怒りが爆発したんです。と言うのも、彼は私のタブレットの中に自分の写真を見つけたからです。偶然にも、(以前)私は彼の写真を撮っていて、それを妹に送り、私達の町がオセット人に支配されていることを見せようとした事があったんです。“誰に俺を突き出そうとしたのか?”と。その後すぐに、後に私が持たされた看板を持って来ました。彼らは私を、あのロータリーになっていて、車も人もたくさんいる広場に連れて行きました。彼らは私の娘の部屋で見つけた(ウクライナの)旗で私を包みました。このヘッドバンドも私の家にあったものなんです。

Photo credit: Mauricio Lima for The New York Times

「私は3時間以上そこに立っていました。男達は私を殴らなかった。悪態はついたが、殴らなかった。なぜ(広場に集まって来た)女性だけが私を殴ったのか?わからない。ある老婆は杖で私を叩きました。どうやって立っていたのかわからない。ポールが役に立ったていました。私は記者達に気付きました。彼らは全くの真顔で写真を撮っていました。」

すると誰かがやって来て、私を引き渡すよう要求し始めたのですが、オセチア人は私を解放しようとしませんでした。彼らは私を本部に連れ帰りました。独房に放り込まれました。そこが恐怖でした。広場では、少なくともレイプされることはないとわかっていました。でも、そこでは何が起こるかわからない。同じオセチア人がずっと独房の中に入ってきて、足で私の胸を蹴っただけでした。それから彼らは、ある男を(独房に)放り込んで来て、その男を殴りました。

それから、『今からキディ・フィドラー(小児性愛者)を連れて来る』と言うのを聞きました。後で知ったんですが、その男(小児性愛者)の隣人が、彼(オセチア人)に、娘のパンティーに手を出したと、告げ口をしたらしいのです。彼はひどく殴られたのに、そんなことはしていないと叫び続けました。私は彼と一緒に叫び、独房の中を這いずり回りました。本当に恐ろしかったから......」

その後、イリーナは突然ビルの3階に移された。そして拷問は止まった。そこでヴォストーク大隊の反乱軍は、全く違う口調で彼女と話し、鎮痛剤を与えた。翌日、彼女は建物から連れ出され、別の建物に案内された。「この移送が本当に怖かったです。もし、また全てが始まるのだとしたら......」引率の男は彼女をなだめ続けた 「最悪の事態は過ぎ去りました。何もかもよくなります。」

彼女はホダコフスキーのオフィスに連れて行かれた。彼は1人ではなく、そこでは会議が行われていた。彼女はホダコフスキーの隣に座るように言われた。彼は激怒していた。「オセチア人の "英雄達 "が彼をこのような状況に置いてしまった事に、明らかに怒っていました......」彼はイリーナに、彼女を積極的に拷問した者の名前を挙げるよう求めた。「彼ら全員の名前を知っているわけではないので、私には難しいことでした。でも、ババイと "ザウル "は知っています。」

ホダコフスキーは車の鍵と例のタブレットを彼女に返した。「向こうのためにやったとしても、私のしていることは犯罪ではないと言われました。」

その時、"髪の毛の黒っぽいジャーナリスト "(彼はマーク・フランケッティであることが判明した)がオフィスに入ってきた。彼はイリーナを抱き上げ、別のアメリカ人ジャーナリストに引き渡した。彼らは5日ぶりになる食事を彼女に与えた。彼らはイリーナに彼らの部屋の間にある部屋を取った。「彼らは明らかに私のことで恐れていました。オセチア人が私を連れ戻そうとするのを恐れていました。」ホダコフスキーもそこに警備員を配置した。

「彼らは人道的でした。翌日、彼らは私と一緒にヤシヌヴァタに行くことにしてくれ、3匹の猫と1匹の犬、夫と娘のために防寒着を取りに戻る事が出来ました。」そして、彼らは彼女をドネツク人民共和国の国境まで連れて行った。「別れを告げる時、彼らの一人が私を抱きしめたそうな動作をした。そして、どこからともなく突然、私が彼に抱きついたのです。どうしてあんなことをしたのだろう......どうしてあんな風に対応してしまったのだろう......とずっと考えていました。」

イリーナは、あのビルに収容されている正確な人数を知らない。彼女が3階に連れて行かれた時には、誰も殴られていなかった。彼女が見たのは、関節炎を患う58歳の女性で、“ウクライナの見解”を持っているという理由で逮捕された - 市場で彼女の隣の屋台で働いていた女性の報告に基づくもので、単にその場所を占拠したかっただけだった。

彼女は次に何をすべきかわからない。彼女は夫と共に、黙っているわけにはいかないと決心した。「実際に起こっていないことは話さないです。人は(それぞれ)違っていて、ババイみたいな人がいるのだと言いたいです。苦情を申し立てる?何のために?どうせ、どのシステムも機能していないですよ。もう3晩も眠れないでいます。昨日、心理学者から電話があって、それは私が経験してき
たことに関係すると言っていました。」

追伸:ここに記したのは、イリーナと彼女の夫ローマンから聞いた話のごく一部である。彼女は回収した車で、猫や犬と共に一人で夫と娘のもとへ戻った。

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