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海向日町駅(うみむこうまちえき)

  薄い海水を掻き分けながら、海面に浮かぶレールの上をトラムは行く。藍色の水面みなもは、水平線に頭を覗かせた陽の光を受け、僅かに白み始めている。

  唯一の乗客である女は、がらんどうの車内を見渡して、再び目を瞑った。いつもは乗客など人っ子ひとりいないであろうこの運行便に彼女が乗ったことに、理由は無かった。強いて言うならば、彼女は昨夜、一睡もできなかったのである。眠ることのできない重い躰を寝床から起こし、どうにかして苦しみから逃れようと外に出た彼女の目の前に偶々たまたま停車したのが、このトラムであった。

  町の中心から港までを真っ直ぐに走るトラムは、港の終着駅に着くと上りのレールに入り直し、再び町の方へと向かう。ただし、夜明け前と夕暮れ時の二本の運行だけは違っていて、トラムは港を出て、海上のレールを走り、海の真ん中に孤在する駅へと向かう。
  けれども、海の真ん中に用事のある者など滅多にいないから、海上を走るトラムが普段乗客を乗せることはない。一体誰が、何のために走らせている便なのかは分からねど、時刻表に載っていないにも関わらず、この便は町の者たちの周知するところとなっていた。

  女が纏った深い瑠璃色のシフォンは、踝よりも長い丈のネグリジェであった。所々にあしらわれたギャザーは、本来優美な印象を与えるものであったのであろうが、寝付けぬ彼女が一晩苦しみながらもがいた寝返りの所為で、今や全く草臥くたびれた様相を呈している。

  ゆっくりと停車したトラムから女が降りると、そこは潮の干き切らない海上の小さな駅であった。二、三人が腰掛けられるベンチと、それを覆うトタンの庇の他には、何も見当たらない。トラムは乗降口を閉じ、女を置いて港へと帰ってゆく。女は虚ろな目を遠い海原に向けたまま、ベンチに座った。サンダルの足とネグリジェの裾を、海面が撫でて濡らしていた。

  太陽が東の空高くに上る頃、潮は干いて、駅のホームは暖かな風に晒された。女は足元が乾いてゆくのを感じると共に、背後が俄に賑やかになるのを感じた。
  振り返ると、女の見下ろす先には小さな町が広がっていた。煉瓦造の建物が所狭しと並ぶその町は、潮が干いたときにしか現れない、海に浮かぶ町である。
  女はホームの端から町まで、階段で下りてゆけることに気がついた。石造の階段は海面に近くなるほどに色が濃く、未だ湿っていることが判った。

  町の様子はさながら早朝の市場であった。果物屋や魚屋は、建物の中から海水に濡れた棚を運び出し、通りに面するように並べる。布巾で大雑把に海水を拭うと、その上に商品を陳列していく。カフェーなどの飲食店は、濡れたテーブルや椅子を建物の前に並べて拭い、大きなパラソルを立て、客席を設えていく。
  女は、準備が整ったのであろうと思われる、あるカフェーの一席に腰を下ろした。程なくして建物の中から店員と思しき人物が現れ、女にメニューを手渡した。
  ――あんた、陸から来たのかい
聞き慣れない訛りで店員の女性は言った。女は黙って肯く。
  ――わかるよ、その恰好だもの
店員はそう言うと、建物の中へ帰って行った。

  女はメニューに目を落とした。珈琲、紅茶など、女のよく知る物と共に、未知の名前が並んでいる。縹茶はなだちゃ浜梨はまなすサイダア、人魚の涙。
  注文を聞きに戻ってきた店員に、女は「真珠糖」を頼んだ。真珠糖が何なのか、女は知らない。食べ物なのか、飲み物なのかさえ想像がつかない。店員は短く何とかと言って建物へと帰って行ったが、女には聞き取れなかった。注文を受けて貰えたのであろうということだけが、ぼんやりと感じられた。

  町の喧騒を聞きながら待つ女のもとに運ばれてきたのは、黄金色の冷えた紅茶であった。グラスの底には真珠のような白い玉が幾つも沈んでいる。柄の長いスプーンで掬ってみると、それは丸い砂糖のかたまりのようであった。口に入れると、さらさらと溶けて無くなり、甘い。女はスプーンで真珠をかき混ぜてみたが、紅茶に溶ける様子も、砕ける様子も無い。どうやら女の知っている砂糖とは違うようである。ストローで一口吸い上げてみると、紅茶に甘みは無く、花の香りがした。

  周囲の店々がすっかり準備を終え、カフェーに客が増えてきた頃、女は町の奥へと向かった。先ほどの店員に聞いたところに拠ると、この町は三段構造だという。潮が干くと共にまず上段が海面から現れ、次に中段、下段の順番で現れる。上段の町の奥に中段へと下りる階段があり、中段の奥に下段への階段がある。下段の町は一番遅くに現れ、一番先に沈むから、毎日ほんの僅かな時間しか陽を浴びることができない。

  女が上段の奥にある広い階段を下りると、中段の町の小さな広場に出た。石畳の地面に寝転がり昼寝をする人々や、ベンチに腰掛けて昼食をとる人々を尻目に広場を抜けると、赤いテントの屋台が目に入った。テントに陽を遮られた商品棚には、小さく細長いものが雑多に並べられている。よく見てみると、どうやら万年筆のようである。色は様々だが、何れも半透明の透き通った素材で出来ている。精巧な金や銀の装飾をあしらったものもある。
  驚くべきはその安価な値段であった。女がよく知る万年筆の、百分の一ほどの値段が札に書かれている。
  ――いらっしゃい。そこにあるもの、今日限りなんだよ。
口髭をたくわえた大柄な店員が言った。まるで海のあぶくが弾けるかのような訛りであった。在庫処分なのだろうか、と女が考えていると、店員はこう続けた。
  ――溶けてしまうんだ、今日が終われば。
店員は更に何か言葉を続けた。あぶくの音が酷くてよく聞き取れなかったが、どうやらここに並べられている万年筆は、今日が終われば、すなわち潮が満ちてこの町が再び海に沈めば、海水に溶けて無くなってしまうらしい。
  ――僕たちだって、毎晩溶けているんだ。夢も見ず、呼吸もせずに夜の海に沈むんだよ。明日また、僕が僕でいられるかどうかは、まったく運に懸かっているんだ。

  これにします、と言って、女は鮮やかな蜜柑色の万年筆を手に取った。先端に巻き付くように施された紺碧のかざりは、光を拒絶するほどに重厚で、透き通る蜜柑色とのコントラストを明確にしていた。
  店員は女から小銭を受け取り、礼を言うと、下段の町の方を指差して言った。
  ――もうすぐあの町も起き始めるよ、水位が下がってきただろう。あの町ではね、一日がとても短いから、ただ皆歌い踊って日中を過ごすんだよ。それだけさ。見ていてご覧。

  あぶく訛りの店員に言われるが儘、女は下段の町に目を遣った。やがてまったく潮が干き、町全体が姿を現すと、人々が中央の円形広場に集まってきた。一人で踊る者、二人一組で踊る者、大人数で輪になって踊る者など様々であったが、肝心の歌声が聴こえない。女は下段の町に降りる階段に近付き、腰を下ろして耳を澄ませた。

  彼らの歌声とは、あぶくの音の声であった。周囲の波のとどろきに掻き消されそうになりながらも、確かに彼らはあぶくの声で歌っていた。女には、僅かな音の高低しか認識できなかったが、下段の町の民にとって、あぶくの声は意味を持った唯一の音であり、最も馴染みのある歌声であった。

  やがて再び水位は上がり、人々の歌声と海のあぶくとが混じり合う中、下段の町は沈んでいった。

***

  女はひとり、駅のベンチに腰掛けていた。中段の町も、上段の町も、潮が満ちて沈んでしまった。海上に残されたのは、今やこの駅のホームだけである。ホームに薄く浸水してきた海水が、今朝と同様、女の足とネグリジェの裾を撫でていた。

  港の方角から、夕暮れ時のトラムが近付いてきた。夕陽に照らされ、橙に染まった水面を揺らしながら走るトラムは、次第にスピードを落とし、女の待つホームに静かに停車すると、音もなく乗降口をあんぐりと開けた。
女は乗らなかった。
  女は考えていた。もし今、このトラムに乗らなければ、どうなるのだろう。これから更に潮が満ち、水位が上がるだろう。この駅がすっかり海に呑まれてしまった時……。

  乗降口がゆるやかに閉じた。女を海上に置き去りにして、トラムは港へと引き返して行く。
  女は、中段の町の屋台で買った万年筆を取り出した。透き通った蜜柑色のそれは、丁度夕陽に照らされた海面を映したかのような色合いであった。
  もう直ぐ、海の蜜柑色にも藍が差し、辺りは暗く夜に包まれるだろう。女は万年筆の筆先を露わにして、自らの腕に言葉を書き付けた。

***

  夜明け前、がらんどうのトラムが、海上に浮かぶ無人の駅で停車した。音も無く開いた乗降口は、暫くの後に閉じられた。今日も乗客はいない。トラムは再び、陸を目指す。

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