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学校の怪談

学校の三階の女子トイレには、幽霊がいるらしい。
夜中の三時に、三階のトイレの、奥から三番目のドアを三回ノックすると、「遊びましょ」という女の子の声が聞こえる。その声に返事をしてしまうと、あの世へ連れて行かれるらしい。どこの小学校にもありそうな怪談話である。
小学五年生だった加奈は、この手の怪談話を頭から信じるほどにはもう幼くなかった。低学年の頃は「三階のトイレにだけは行くまい」と決めていた加奈も、おとなに近づくにつれ、それがこども騙しのフィクションなのだということに気づいていった。

「夜中の学校に忍び込んでみたくない?」と言ったのは、加奈の友人である美琴だった。それを聞いた真緒は「駄目だよお」と言って笑っている。
加奈、美琴、真緒の三人はクラスメイトで、休み時間はいつもこうした冗談を言い合ったりしながら過ごしていた。
「じゃあさ、夜中に忍び込んで、三階のトイレをノックしちゃおうよ」と言ったのは加奈だった。それを聞いた二人は、「幽霊出てきちゃうじゃん!」と笑った。それはこども騙しの怪談話を馬鹿にするための笑いであり、自分たちはすでにこどもではないのだと確かめるための笑いであった。

些細な冗談は、彼女たちが下校する頃にはすっかり忘れ去られて、このまま三人の思い出の片隅にすら残らずに消えていくかのようであった。
「夜中の学校に忍び込む」などと言う無茶なアイデアを加奈が思い出したのは、その日の夜のことであった。正確に言えば日付が変わった後で、時刻は三時五分前だった。なんとなく目が覚めた加奈は、暗い部屋の壁で時計が示しているその時刻を見て、小さく「あっ」と声を漏らしたのだった。
学校で美琴たちと話した内容を思い出す。特に考えがあったわけではないが、いつの間にか体が動いて、加奈は玄関の扉を開けそろりと外に出た。
昼間とは打って変わって、暑さが息を潜める七月の夜であった。加奈の家は学校のすぐ隣で、家から学校の正門まではほんの数十歩である。少しだけ歩いてみよう、と歩き出すと、加奈の心臓は痛いくらいにばくばくと鼓動を打った。いつでも帰れるから大丈夫、と自分に言い聞かせながら、サンダルの足で一歩一歩地面を踏んだ。
加奈の心臓が一層激しく鳴ったのは、まさに正門に辿り着こうとしたときであった。閉じた門の端に、人影が見えたのである。足がすくんで立ち止まった加奈は、一瞬のうちに「美琴か真緒が本当に来たのか、それとも危ない人だろうか、あるいは、幽霊?」と考えを巡らせたが、外灯が仄かに照らす人影は加奈のほうを見て、少しだけ驚いた様子でこう言った。
「楠木じゃん、何してんの。」
それは加奈と同じクラスの少年で、素行の悪い鍋島であった。
加奈は鍋島を怖いと思っていた。彼は授業中は不真面目だし、よく同級生に暴力を振るっては問題になっている。
けれど、夜の闇の中、ぽつんと地面に座っている鍋島は、いつもより小さく見えたし、なんだかもっと幼いこどものようにも見えた。
「そっちこそ何してんの。」
加奈は動揺を悟られまいと言い返した。すると鍋島はそっぽを向いて、「家がうるさいから、出てきた」と低い声で呟いた。
「何それ。お父さんとお母さん、心配しないの?」
状況が飲み込めないまま加奈が訊くと、鍋島は俯いてこんなことを言った。
「うちの父さんと母さん、凄く仲悪くてさ。いつも家で喧嘩ばっかりしてる。二人とも俺のことなんて見てないし、夜中に家出したって気づかないよ。」
何と答えていいのか判らなくて、加奈は口を噤んだ。沈黙を夏の夜の虫の音が埋めていく。
「そう言うおまえはどうなんだよ。家出?」
沈黙を破ったのは鍋島だった。加奈は頭を横に振って言った。
「私はね、幽霊に会いに来たんだ。」
鍋島は何でもないことのように「ふうん、幽霊か」と呟いたが、加奈にはそれが意外だった。幽霊だのお化けだの、そう言った類のフィクションを加奈以上に馬鹿にしているのが鍋島だと思っていたからである。
「鍋島は幽霊とか信じるの?」
「信じるよ。」
加奈の冗談半分の質問に、今までに見たことのないような真面目な顔で鍋島が答える。
「見たことはないけどさ、幽霊ってきっといるんだよ。」
そう言う彼のまなざしは真剣で、逃げられない大きな何かが迫っているような緊張感があった。加奈は鍋島を揶揄う気にはなれず、またしても口を噤んだ。
「もう帰れよ。おまえの父さんと母さん、心配するんだろ。」

加奈がその夜のことを口外することはなかった。翌日学校に行けば、鍋島はいつものように粗暴で近づき難く、夜中の正門の前で彼と話したのは夢だったのかもしれないと加奈は思った。
 
夏休みが明けると、鍋島は学校に来なくなった。おとなたちが不穏な噂話をしているのが加奈の耳にも入った。
六年生に進級すると、鍋島の名前は学年名簿からも消えた。先生は何も言わなかった。
まるで幽霊みたいに跡形もなく消えてしまった鍋島のことを、加奈は時折思い出そうとしたが、おとなになるにつれ記憶は曖昧になって、やがて「あの夜のことは夢だったのだろう」と結論付けることしか自分を納得させる術はなくなってしまった。

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