noteサムネ

”病人らしく” なんていらない。私は "私らしく" を生きるんだ。


「病人は病人らしく生活しなければならない」

何だか呪いみたいですね。

私には
病人らしく=自粛して
と読めてしまいます。

いつどこで誰から聞いたのかはっきりと覚えていませんが、なぜか上のような考えが私の中にありました。

そんな私が適応障害になり、感じたことがあります。

それが、

病気にかかっている人も、そんな人が周りにいる人も、"病人らしく" にとらわれず、心を軽くできる世の中だったらいいな

ということです。

もっと広く言えば、"~べき" にとらわれずに、自分の心の赴くままに人生を生きることができる世の中だったらいいなと。

なぜこの考えに至ったかを以下に書いているので、
最後までお読みいただけると幸いです。


1. "元気な私" は疑いようのないデフォルトだった。

私は中高6年間、部活の公欠を除いて皆勤でした。

6時ごろに起きて1時間ほど電車に揺られながら登校し、18:30の下校時間まで部活をしたり学校に残って友達と話したり自習をしたりという生活で、風邪をひくことはあってもインフルエンザになることも大きな病気にかかることもなかったです。

"病人"という言葉とは無縁の人間でした。

しかし、大学2年の秋ごろから朝起き上がれなくなることが増えました。そのころは「ちょっと疲れているのかな」と思いながら何とか体を起こして大学に通っていました。このころから何事もなく通学できるということが減っていったように思います。

状況は改善されず、日を追うごとに悪化する一方でした。

「良くなった!」とか「今日はいけるぞ!」って思ったとしても、翌日にはまた動けなくなることもしばしば。大学も週1回しか登校できなくなっていました。

そして大学3年となった去年の秋、全く動けなくなりました

大学に行くことも、買い物に行くことも、全部がしんどい。ベッドに縛り付けられているようでした。

そんな状況になってもなお、「私はきっと大丈夫だから」「そのうち治っているだろう」という謎の自信から、自分の状況と向き合おうとしませんでした。まあ "6年間健康だった自分" を過信していたのだと思います。

結果、自律神経失調症だと診断されました。
ショックでした。
あんなに健康だったのに。
私は元気だって思っていたのに。

心配した母や祖母から「中高のころは元気だったじゃない」とか「あのころは普通に学校に行ってたじゃない」と言われれば言われるほど "今" の自分の居場所がなくなっていきました。

そんなこと、自分が一番分かってんねん

本当にこの言葉しか出てきませんでした。

また、当時私の頭に浮かんでいたのは

外で知人に会ってはいけない
隠れて生活しなければならない

ということでした。
病人はしんどいはずだからずっと家にいないといけない、のように勝手に自分で "病人像" を作り上げて必死に自分を当てはめようとしていました。

そのため、

「しんどいんでしょ?何で外出してるの?」
「病気って嘘だったんだね」

という向けられてもいない言葉におびえていました。今振り返っても、私の周りにそんな言葉を投げつける人はいないと思うんですけどね。当時はかなり人の目や他者の反応に過敏になっていました。


2. なぜ自分で呪いをかけるのか。

「病人は病人らしく生活しなければならない」

私は、心のどこかで誰かにそのような行動を求められていると思っていました。

少し話は逸れますが、
"~らしくある" っていいところもそうでないところもあると思うんです。

ある時は "こうありたい" という理想像まで引っ張り上げてくれます。その理想像の自分だったらこう行動するだろう、とか考えて動いていることが多いです。そうすることで、 自信が持てるかっこいい自分 になれる気がするんですよね。しんどいときこそ笑顔でいるとか、毅然とした態度をとるとか。

そしてまたある時には "こうしなければならない" という 心の枷 にもなります。いわゆる べき論 ですね。理想と現実のギャップに悲観して、なんで自分はこんなこともできないんだろう、とどんどん自分を追い詰めていきます。

以前の私は、後者のパターンに陥ったとしてもその状態を悔しいと思って這い上がるバネにしていました。

このように、"~らしくある" ことは文字通り私という人間を支えてくれていました。

かっこいい自分でありたいと願い、
そうあれるように生きていました。

だからこそ、"病人らしくある" ということにとらわれたのです。全然 "~らしく" の意味合いが違うのに。

さて、話を戻します。
この "~らしくある" を病気になった人に当てはめてみるとこうです。

・見るからにしんどそう
・家や病院でじっとしている
・何かをする元気がない
など…

私の場合、病人=上記の状態にいる人、かつ "~らしくこうあるべき" ことがいいことだと思い込んでしまっていたので

もしも外に出たら、
家の中でも最低限の生活以外のことをしていたら、
もう元気なんだって思われる。
誰から見てもしんどい自分でいないといけない。


と考えて、必死に自分で作った "病人像" に自分を押し込めていました。

だけど実際はそんなことないのです。

確かにしんどい日はあるし、
ひどい時は起き上がれない日もあります。

その一方で元気な日もあり、
そんな時は外に出てみたくなるのです。

元気な日、と書きましたが1日の中にも波があります。そしてそれは日によって違います。

そのため誰かと連絡を取っていたときはすごくしんどかったけど、少し休んだら元気になった。ということはざらにあるのです。

私の場合、心も元気な時にふせっていては余計にふせってしまいました。元気なときは適度に外に出たり、ストレスを感じない何かに没頭したりするのがいい薬の1つでした。


3.  "~べき" にとらわれずに生きる。

前述した通り、私は "~らしくある" ことで自分を支えて生きています。ただそれがいきすぎた結果、いつのまにか "~べき" にとらわれて自分の首を絞めていました。"~べき" を鎧にして自分を強くしている気になっている一方で、気づかないうちに自分に呪いにかけていました。

たぶん私にとって、
・本当に必要な装備 = "~らしく"
・増えすぎたごてごてな鎧 = "~べき"

なんだと思います。

そして今の私は "~らしく" という装備の上からどんどん "~べき" という鎧を重ねることで自分を保っています。だからいきなり鎧をすべて取っ払って生きようと思っても、無防備過ぎてすぐ倒れてしまいます。だから現在進行形で鎧を外しているところです。

また私にとって、 "こうありたい" という理想像を置き、どうすればその理想像らしくなれるかを考えるのは必要なことだと考えています。なぜなら、それが私にまだ知らない世界の道しるべになったり前向きに私を奮い立たせてくれたりするから。

ただ、ここで注意しなければならないのは、理想像と違う結果や行動になってしまったとしても「そういうこともあるよね」ってそこまでの自分を肯定するのを忘れないことだと思いました。

理想はあくまでも理想。
すべてその状態になるとは限らない。

上のことは当たり前なのですが、どうしても納得できなくて悔しい私は「何でできなかったんだ、私なんてだめだ。」と自分を否定してしまっていました。できない自分が嫌いでした。

でも、
うまくやれない自分も、
それに嫌悪感を抱く自分も、
何だか体が重すぎてベッドから動けない自分も、
何もかも投げ出して自由になりたいと思う自分も、
どうしようもなく不安や怒りを泣き叫びたくなる自分も、

そんな全然綺麗でもかっこよくなかったとしても、
結局は、全部ひっくるめて私という人間なんです。

「まあそういうこともあるよね」
「しょうがないよね」

そういって自分を肯定し、許してあげることで、
"~べき" という鎧を少しずつ外して、
前向きな "~らしく" だけで生きていける気がします。


4. "病人らしく" なんていらない。私は "私らしく" を生きるんだ。

最初の話に戻りますね。

私は、 "~らしく" は「こうありたい」と、プラスの意味で自分自身が定義して、自分を奮い立たせるときに使うものだと思います。

決して自分を縛り付けるものでも、
誰かに求めたり、求められたりするものでもありません。

もしそうなら、すごく苦しい。
知らないうちに自分の首も誰かの首も絞めているのだから当然ですよね。

だからこそ「こうでなきゃ」「こうあるべき」というニュアンスが含まれている "~らしく" はいらないのです。

病人らしくだけじゃなくて、
障害者らしくも、
被害者らしくも、
女らしくも、
男らしくも、
子供らしくも、
大人らしくも、

全部、いらない。

自分がどうありたいかは、自分が決めます。
そして、自分がどう生きるかは、自分が決めます。

"~らしく" は呪いでも、鎧でもありません。

自分を奮い立たせて、高みを目指す支えになるものです。

自分の人生を生きるのは自分しかいないからこそ、
誰にも侵されることなく、
もっと、自分を、自分らしくを愛して、
人生を全うできますように。

また、誰もがそんな風に生きられる社会になりますように。


最後に、祈るだけではなく私もそんな社会を作る一員でありたいという決意を記してこのnoteを終わろうと思います。



ここまでお読みいただきありがとうございました。


ゆり




P.S. 伊藤詩織さんが勝訴した件での山口氏の発言がまさに「性被害者は性被害者らしくこうあるべきだ」というようなもので、すごく憤りを感じました。

性被害者は、
笑って生活したらいけないの?
前を向いて生きてはいけないの?

なんで?

ボロボロに傷ついた状態から立ち上がっているだけで本当にすごいことなのに、笑ったり前向きに生きようって思ったりしている裏には相当な努力があるはずなのに、なんでそれを否定するんだ。

そして、よりによって加害者にそんなことを言われないといけないんだ。

Twitterで詩織さんを批判している人とかも、傷ついた人をその後も徹底的に痛めつけて何がしたいんだよほんとに。

こんな社会を変えない限り、苦しみの連鎖が起こるだけだ。


やっぱり誰かに求められる "~らしく" ほど苦痛で、生きづらいものはないなと改めて感じた一件でした。

本を買ったり録音の機材購入の資金にしたいと思います!