"人生は死ぬまでの暇つぶし" なら、"生きたい理由" なんて大層なものなくてもいいんじゃないかと思った新年最初の鬱期11日目。
死にたい と 生きなければ が交差する、午前3時。
ほぼ毎月1週間ほどやってくる鬱期も、14回目になった。
もちろん今年初。
14という数字を見ると適応障害になって、もう1年以上経ったんだなと思う。
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14回目の鬱期はどうもタチが悪い。
今月はやばいかも、という予感が見事に当たった。
今回のは長い。
なかなか戻れない。
始まってから11日目になる。
そして、一緒に活動している人たちに自分の今の状況を伝えずに丸4日。(連絡できていなくてごめんなさい、生きてはいます...)
周りの世界は1時間ペースでせわしなく動いているため常に状況は変化していく。この96時間の間で状況は大きく変わっている。
ただその一方で、
自分の時間だけがゆるやかに流れているような感覚に陥る。
たぶんLINEとSlackの通知を切ることで忙しない日常から隔離されるからだろう。
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世界に取り残されることを選んだ私は、
ただベッドの上で時間を溶かしていく。
その間は何も考えられない。
ひどいときは心地よい音しか受け付けられない体になる。
心地よいのは、鳥のさえずりや風の音、オルゴールのメロディーとか。
今の家は足音がよく響くから同居人たちの足音でさえ敏感になり怖くなる。足音にちょっとしたトラウマがあるから余計に。
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溶かした時間を掬ってまたやり直すことなんてできないのに。
この人生で同じ瞬間なんてありはしないのに。
そんなの分かってる。
それでも、私がこの鉛のような体を動かして、再び普通に生活するには、時間にすがるしかない。
私は、時間を溶かし、
時間は、私の不安と孤独と恐怖を溶かしていく。
私は時間に、依存している。
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「何で生きてしまっているんだろう」
ふとそう思う。
どうしようもなく死にたくて、
でも、ここで死んだらだめだと踏みとどまる。
その繰り返しの日々。
死んだらだめだと思うのも、私が死んだあとに残された人がしなければならないことの多さを考えるからだ。
生きたいと思う理由はほとんどない。
しいて挙げるなら、もっと遊びたいとか結婚してみたいとか。でもそれが生きる強い理由になるかと言われれば違う。
"人生は死ぬまでの暇つぶし" という言葉を聞いたことがあるが、もしそうなら生きる理由なんてぶっちゃけなくてもいいかなと思える。もっと気楽で、今この瞬間に満足できていたらいい。
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ああはやく、抜け出したい。
はやく "今この瞬間に満足できる自分" に戻りたい。
あとどれくらいの時間があれば
不安と孤独と恐怖が溶けきるのだろう。