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再会 【2000字のホラー】

「ママ、眠い」
「肩にもたれていいわよ」
「苦しくない?」
「大丈夫よ」
 妊娠中のつわりがひどい時期は幸樹を甘えさせてあげられなかったのを申し訳ないと思っていた。
 幸樹が小学一年生になって初めて挑んだピアノの発表会の帰りだった。極度の緊張から解放された安堵からだろう。バスの揺れも相まってすぐに寝息を立て始めた。夕方五時を過ぎた日曜日のバスはほぼ席が埋まっている。安定期に入ったとはいえ、長丁場の発表会は思っていた以上にしんどかった。
「大丈夫ですか?」
「えっ?」
 その相手を見て、ひどく狼狽えてしまった。
「坪井さん? 坪井菜央さんじゃない? 小学校が一緒だった林田夕夏よ。覚えてる?」
 彼女を忘れるはずがない。いえ、忘れたい存在ではあった。
「ひ、久しぶり」
「今ね、実家に用があって帰省してるのよ」
「そうなの」
 その時、幸樹が不機嫌そうに目を擦りながら起きてしまった。
「着いた?」
「ごめん、まだなの」
「ごめんなさいね。起こしちゃった?」
 夕夏が声のトーンを落として幸樹に言った。
「お詫びに頂き物なんだけど……あっ、あげても大丈夫? チョコレート菓子なんだけど」
「大丈夫だけど、そんな高級そうなお菓子悪いわ」
 幸樹はすでに貰う気で、断ろうとする私を軽く睨んだ。
「私、チョコレートが苦手で貰ってくれたら嬉しいわ」
「じゃあ、遠慮なく……ありがとう」
 幸樹は小さな箱入りのチョコレートを受け取ると、嬉しげにリボンをほどき始めた。
「幸樹君。いい子ね」
「ありがとう。家では本当にやんちゃで」
「……イジメなんかしなさそう」
「えっ」
 さらりと夕夏が口にした言葉が胸に深く突き刺さった。
「いじめの張本人なのに『いじめられてるのに何で学校に来られるの?』なんて、絶対に言わなさそう。ねえ?」
 心臓を鷲掴みされたみたいに身震いした。
「おばさん、何で知ってるの?」
「幸樹?」
 顔面蒼白の幸樹が夕夏を見ていた。一目で様子がおかしいのが分かる。
「知ってるって何の事?」
 夕夏が優しく問いかけた。
「僕、少し前からクラスでいじめられてるんだ」
「えっ。何で言わなかったの」
「だって、ママ」
 私のお腹をちらっと見た。私の体調を気遣って、ずっと一人で我慢していたらしい。
「ごめん。ごめんね、幸樹」
「……僕もそう言われたんだ。ひどいよね」
「……そう、ね」
「ママもいじめられた事ある?」
「ママは……ないわ」
「おばさんは?」
「幸樹! そんな事聞いたら失礼でしょう」
 夕夏がどんな表情をしているか怖くて見られなかった。
「おばさんはあるわよ」
 心臓が早鐘を打ち、汗がどっと出た。
「大丈夫? 凄い汗よ」
 頷くのがやっとで、ハンドタオルで顔の汗を拭いた。
「その時はどうしたの?」
「先生に相談したわ。そしたら、クラス集会で私へのいじめを議題にされて、いつの間にか私が悪い事になったわ」 
「何で? おばさん、悪かったの?」
「分からないの。いじめてきた子は、ちょっとからかっただけだって」
「えー! ひどい」
「でも、あなたには味方になってくれるママがいるじゃない。ねえ?」
「え、ええ」
 突然お腹を激しく蹴る子をなだめる様にお腹をさすった。
「家族がどんな人達なのかお腹の中で聞いているのね」
「え?」
「私、ここで降りるから。いいママになってね」
 夕夏はバスを降りて行った。
「ねえ、ママ。あのおばさん怖かったね。本当はママがあのおばさんにいじめられていたんじゃないの? このチョコ、何か変な味するし、もういらない」
「……そうなの。ママ、あの人にいじめられてたの」
 どうせもう会う事はない。これくらいの嘘、幸樹を守る為なら平気だ。先生だってそう言っていた。悪いのは夕夏の方だって。
 お腹の子がまた激しく足をばたつかせた。
「今のは痛かったわよ……あら? 寝ちゃったの? 気まぐれねえ」
 幸樹がじっとお腹を見ていた。
「赤ちゃん、起きてるよ」
「嘘、何も感じないわよ?」
 胎動は落ち着いていた。
「動いてるよ。なんか、怖い」
「え?」
 私には丸いお腹が呼吸で上下している様にしか見えなかった。
「顔……」 
「顔?」
「さっきのおばさんだ」
「幸樹?」
「おばさんが何か喋ってる!」
 また顔面蒼白になって、焦点の定まらない目でお腹を見ている。
「しっかりして! どうしたの」
 チョコが付いた口を見てはっとする。あれに何か入っていたとしたら。
「……ママって嘘つきなんだね」
「幸樹、水飲みなさい」
 ペットボトルの蓋を開け口に押し付けた。
「……ママ、赤ちゃん見てるよ」
 胎動が激しくなり、あまりの痛さに涙が出た。
「嘘つきはゆるさないって」
 そう呟いた幸樹の顔が一瞬だけ夕夏に見えた。

おわり

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