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ハーモニアスカフェへようこそ


研究社 新和英中辞典より


 夕方六時。清水はカフェ『ハーモニアス』の看板の周りを掃除していると、カフェのオーナーである市川が年末の挨拶回りから戻って来た。
「清水くん。今日は悪かったね。店の営業は休みにしようと思ってたんだが、常連さんに夜だけでも早めに開けて欲しいと言われてね」
「いえ。暇してたので。それより市川さん。今日のフードメニューはカレーとサンドイッチのみですか?」
 市川が企画した年越しイベントの為に、清水ともう一人のアルバイトが駆り出されていた。
「そうだね。今日は九時からのイベントに合わせて来る人が多そうだから、それで行こう。あと、黒板の下にイベント開催の告知を貼ってくれるかな」
「分かりました。でも、蕎麦でもお雑煮でもなく、お汁粉なんですね」
 清水が告知のチラシを黒板に貼る。
「うん。クリスマスイベントが辛い食べ物だったから、次は甘いものかなとね」 
 クリスマスに開催した『激辛ナイト』は好評で、毎年の恒例イベントになりつつある。
「それだけですか?」
「なに、その疑いの目は」
「市川さんの事だから、何かしらのサプライズがあるのかと」
「サプライズね。あった方がいいのかな」
「いえ、無くて大丈夫です」
 慌てて言うと、市川が嬉しそうに何かの手配をし始めた。
「あーあ。やっちゃいましたね」
「山田さん。音を立てずに近寄ってこないでくれる?」
 大学生アルバイの山田夏希が、テーブルの正月飾りの小さな虎の人形を差し直す。
「僕達にはサプライズがあるなら説明して欲しかっただけだよ。君だって急に始まった脱出ゲームに戸惑っていただろ」
「まあ。あれは宝探しゲームでしたけどね」
 それは夏休み中に市川が商店街の人達と密かに企画していたイベントだった。店内に散りばめられた暗号を解き、隠された番号札を探すという単純なものだ。全て集めた頃に市川が現れて、番号札は商店街で使える商品券やカフェの食事券に交換された。
「市川さんは人を驚かせたり、喜ばせたりするのが好きなんだよ」
「嫌な気分にはならないですもんね」
 二人は市川に振り回されて、最初は困惑こそすれ、終わってみればいい一日だったと思える。だからこそ、沢山の人が市川の側に集まって来る。
「今日も、皆さんに喜んでもらえるように頑張ろう」
 清水と夏希は頷き合った。
「すみません」
 キャップを目深にかぶった小柄な女性が、ドアの外に立っていた。清水が対応に向かうと、不機嫌そうに外の黒板を指差した。
「今夜、イベントやるんですか」
「はい。九時から年越しイベントを開催します。お汁粉を振る舞いますので、もし宜しければ」
 清水が告知のチラシを女性に渡そうとすると、鋭い目つきでそれを静止した。
「結構です。芋もち大嫌いなので」
 そう言い放ち、階段を勢いよく上り去って行った。
「何だったんです?」
「山田さん。今の彼女、芋もち大嫌いなんだって」
「まあ、好き嫌いはあるんじゃないですか? 芋もちって郷土料理ですし」
「うん。そうじゃなくて。どこにも書いてないんだ。芋もちのお汁粉って事をさ」
 二人はチラシを見るが、確かに芋もちのお汁粉とは書いてない。
「じゃあ、彼女は誰かに聞いたって事ですよね?」
「市川さんの知り合いなのかな? でも、わざわざ言いに来るなんておかしくない?」
「嫌な予感しますね」
 夏希がわざとらしく肩を震わせた。だが、そんな不確かな事にいつまでもこだわっていても仕方ない。
「とにかく。残りの作業を終わらせよう」
「はーい」
 二人がメニュー表やカトラリーを確認していると、二階に借りている事務所から、市川と料理担当の前川が戻って来た。前川はそのままダンボールを抱えてキッチンへ入って行った。
「じゃかいもですか?」
「うん。あとカボチャもね」
 市川の地元、北海道から直送したじゃがいもは、今回のお汁粉の主役だ。
「カボチャ入りのお汁粉も初めて食べるので楽しみです」
 じれたように夏希が清水に目配せする。
「あの、市川さん」
 その時、常連客がドアの外で市川を呼んだ。
「開くの七時からだっけ? あ、まだ三十分もある」
「安藤さん、すいませんね。まだ準備中なんですが、珈琲なら直ぐにお出し出来ますよ」
「いいの。いいの。また後で来るから。この人の酔いを覚まさないと」
 安藤の妻がすまなそうに横から口を挟む。商店街でクリーニング屋を営んでおり、今日から三日まで休みで安藤は早くから飲んでいるらしい。後で顔を出すと言って、帰って行った。
「安藤さんって、お嬢さんがいらっしゃいましたよね?」
「うん? 急にどうしたんだい」
「あの、先程店に」
「市川さん、お話中すみません」
 キッチンから前川が顔を出した。
「ごめんごめん。今行くよ。レシピは僕しか知らないんだ」
 市川はキッチンへ戻ってしまった。
「もやもやしますね」
「大した事じゃないのかもしれないけどね」
「そうですけど。悪意っぽいし、嫌じゃないですか。問題を抱えたまま年越しするの」
「問題って、大袈裟な」
「これが市川さんのサプライズとか?」
 今までの事を思い出してみたが、不快な気持ちになる事は一度も無かった。
「無いですね」
「無いな」
 ドアベルがチリンと鳴って二人の女性客が入って来た。丁度、午後七時。開店の時間だ。
「いらっしゃいませ」
「すみません。食事出来ますか?」
 近くにいた清水が対応する。
「はい。今日はカレーとサンドイッチのみの提供となっているのですが、よろしいでしょうか?」
「はい。以前食べたカレーがまた食べたくなって」
「それは、有難うございます。お好きな席へどうぞ」
 女性客の一人はスパイシーチキンカレーとラッシー、もう一人はアボカドチキンのサンドイッチとアイスコーヒーを注文した。
「九時からお汁粉を振る舞うイベントを開催するので、宜しければご参加下さい」
 女性客はどうするかを楽しそうに相談を始めたので、一礼して清水はその場を離れた。
「どうですか? 参加してくれそうですか?」
「どうだろう。芋もちは出来ても、お汁粉は市川さんの知り合いが用意するみたいだからね。出来次第では早めに始められるかもしれないけど」
「サンドイッチ上がったよ」
 清水はアイスコーヒーと共に女性客へ運んで行く。
「芋もち大変そうですね。手伝いましょうか?」
 夏希が汗を拭く市川に声をかける。
「有難う。お客様の様子を見て頼む。もうすぐ、カレー上がるよ」
「了解です。わ、いい匂い」
「残ったら食べていいぞ」
「やったあ」
 嬉しそうにカレーとラッシーを客席へ運んで行く。
「あのお客様達、この後のイベントに参加してくださるそうです」
 夏希がこっそり市川に声をかけた。
「あれ、沙奈さんだったのか。そうか、もう大学生なんだな」
「え? 知っている方ですか?」 
 塩茹でしたじゃがいもをすり潰していた清水が手を止めて、カウンターの後ろから身を乗り出す。
「ああ。さっき聞いてきただろ? 安藤さんのお嬢さん。それが、沙奈さんだよ。髪を後ろで束ねたブルーのシャツの彼女だよ」
 失礼とは分かっていても、二人は沙奈と呼ばれた女性を見つめてしまった。
「もっと小柄な人でしたよね」
「ああ。もしかしたら、高校、いや中学生くらいだったのかも」
「誰の事だい?」
「あっ。市川さん。今日の六時頃に女性がイベントの事を尋ねてきたんですよ。芋もちがお好きではないとかで。市川さんのお知り合いの方ですか?」
 言葉を選んだつもりだったが、市川の表情がみるみる曇っていった。
「そうか」
 ぽつりと呟いて、作業に戻ってしまった。残された二人は顔を見合わせる。
「何だろう」
「トラブルじゃないと良いですけど」
「うん」
 人前で長々と電話をしない市川が、度々思いつめたような表情で話す姿を見かけるようになった。電話を切った後はいつもの穏やかな表情に戻るのだが、トラブルを抱えているのだろうかと気になっていた事だった。
「あの、芋もちってどうやって作るんですか?」
 沙奈とその友人が興味津々といった表情で二人に話しかけて来た。
「はい。芋もちの材料はですね」
「お客様が宜しければ、少し体験してみますか?」
 清水がレシピを説明していると、前川が潰したじゃがいもと片栗粉を持って現れた。
「えっ。良いんですか? やってみたいです」
 沙奈と友人女性は、夏希がシートを敷いたテーブルの前に遠慮がちに歩み寄った。
「手袋をどうぞ」
 前川が全員に除菌シートと手袋を配る。事務所にでもいるのか、市川の姿は無かった。
「芋もちの材料はシンプルで、じゃがいもと片栗粉で作ります。これはすでに茹でた後、裏ごしをしたじゃがいもです。ここに、少量の片栗粉を混ぜて、ぬるま湯を少しずつ加えていきます」
 沙奈には清水、友人女性には夏希が付き、一緒に芋もちを耳たぶくらいの柔らかさまでこねていく。そのあと小さな丸型にまとめて、真ん中を少しだけへこませるのがポイントだ。
「これを、お湯で茹でると完成です」
 皆の間に歓声が起こる。
「ですが、まだお汁粉が出来上がってないので焼いて食べてみましょうか」
「嬉しいです。でもイベント前なのに良いんですか?」
「せっかく作って頂いたので。バターで焼くと美味しいですよ」
 女性客に混じり、夏希も食べる気満々でガッツポーズした。前川がその様子に苦笑しながらも、皆が作った芋もちをホットプレートで色が付くくらい両面焼く。甘いじゃがいもの匂いがふんわりと漂った。
「このままでも美味しいですが、醤油のタレをつけても美味しく召し上がれます」
 醤油、みりん、砂糖を煮詰めたタレを絡める。
「どうぞ。味比べしてみて下さい」
「わあ。どちらも良い匂い。ご飯食べたばかりなのに、食べられちゃいます」
 照れたように友人女性は笑う。
「それは良かったです。どうぞ、ごゆっくり召し上がり下さい」
 前川が女性客から離れ、後片付けする清水と夏希に近寄って来た。
「ちょっと二人ともいいか。電話をかけると事務所に行った市川さんが帰ってこない。事務所にもいないし、電話にも出てくれない。何かあったようだ」
「えっ」
「二人とも、何か知らないか? 自分で企画したイベントを無断で放り出すなんて、市川さんらしくない」
「私たちも、はっきりとはーーでも、もしかしたら、女性が関わってるのかも」
「女性?」
「ええ。実はーー」
 夕方の出来事を前川に伝えると、眉根を寄せ思案顔になる。
「その子、新山百香ちゃんかもしれないです」
 声に驚いて振り向くと、沙奈が複雑そうな表情で立っていた。
「ごめんなさい。お話が気になってしまいました。新山さん、ももちゃんのお母様とご縁が合って、よくご自宅で料理を教えてもらうんです。それで、ももちゃんともよく顔を合わせていて」
 自分達が聞いても良い話なのか判断が付かず、三人は互いの反応をうかがった。
「ももちゃん、子供の頃に家を出ていったお父さんの事をずっと待っていて。だから、お母さんと仲良い市川さんの事をあまりよく思ってないんだと思います」
 ものすごくデリケートな話になり、慌てて前川が話を遮る。
「待ってください。あの、市川がいなくなるのと、この話ってどう繋がるんですか?」
「皆さん、ご存知無かったのですね。新山さんは、料理教室をなさっていて、今回のお汁粉イベントの企画者でもあるんです。そして、お汁粉を作ってこちらへ持ってくる予定なんですけど、トラブルで持ち出せないのかもしれません」
 さらりと重大な事を口にした沙奈の顔を、三人は穴が開くほど凝視する。
「え、あ! 今、何時?」
 時計の針は九時を過ぎていた。
「どうするんです? イベントの開始時間を過ぎてるのに、お汁粉が無いなんて」
 前川が一呼吸して、右往左往する夏希を落ち着かせる。
「新山さんの連絡先は分かりますか?」
「は、はい。もちろんです。かけてみましょうか?」
「お願いします。私も市川にもう一度電話を」
 残された三人は、何とも居心地の悪さの中で曖昧な笑みを浮かべる。他に何か出来る事はないのだろうか。
「缶詰の小豆、買ってきます? すぐ食べられる物、用意した方が良くないですか?」
「最悪、スーパーで買ってくるしかないか」
 夏希と清水が買いに出ようとするのを、沙奈が慌ててジェスチャーで待つように止める。そして、携帯電話の通話をスピーカーにした。
『新山です。この度は本当に申し訳ありません。私が少し鍋から離れた隙に、娘が中身を保存容器につめて何処かへ持って行ってしまったんです。しかも、お汁粉が入っていた鍋に大量の小豆が代わりに入っていて。一体何を考えてるのか。今、辺りを捜索してるんですけど、何処にもいなくて』
「そんな。あの、市川はそちらに?」
『はい、今、お汁粉の小豆を煮てもらってます。あと三十分ほどで何とか仕上がると思います』
 まだイベントの参加客が来ていないのが幸いしているが、いつまでも何もせずにお汁粉の到着を待たねばならないのも歯痒かった。
「やっぱり、缶詰は用意した方がいいんじゃないですか?」
 夏希がコートを取りに行きかけたが、やはり沙奈がそれを必死に止める。
「新山さん、本当に今回のイベントを楽しみにしていて。小豆も砂糖もすごくこだわった良いものを用意してたんです。だから、最後までやらせて欲しいんです。すみません。外野が何を言ってるんだ、ですよね」
 友人が沙奈を慰めるように頷くのを、夏希は困った顔で見ていた。
「そうだな。店としても責任はあるから、やれる事はやっておこう。清水、手伝ってくれ。山田は来たお客様の対応を頼む。準備が整い次第、お汁粉は提供すると。その間は芋もちの創作料理で楽しんで貰おう」
「分かりました」
 沙奈と友人は心当たりを探してみると言って出て行った。
 十時を回った頃、松崎咲良という女性が駅前の本屋で会ったと向井という男性と共にやって来た。事情を話すと快諾してくれ、二人を席に案内する。クリスマスに開催した激辛ナイトでは顔を合わせただけだったが、その後、カフェで再会して意気投合したようだ。
「後でもう一人女性が来ます」
 その女性もイベントで仲良くなったという。
「お待たせ致しました。こちら、芋もちチーズ揚げと焼き芋もちです」
 夏希が澄ました顔で説明するのを、清水は感心して見ていた。噛まずに言えたのを褒めなければならない。
「芋もちの中にカマンベールチーズを挟み込んで油で揚げました。こちらは、甘辛タレを付けて焼きました。どうぞ、食べ比べしてみてください」
 二人は目を輝かせて箸を伸ばす。反応は上々のようだ。
「でも、いつまでも来たお客様に同じサービスは出来ないな」
「そうですね。今ある材料が尽きるまでに届くと良いのですが」
 数名の客ならば何とかなるが、お汁粉を楽しみにくる常連客やその子供達がそろそろ来る頃だ。焦る気持ちが抑えきれなくなりそうだった。
「お待たせ!」
「市川さん!」
 市川と常連客達が鍋を持って一緒に店に入って来た。夕方に来た、安藤夫妻も一緒だ。
「良かった! すぐ温めましょう」
 前川が心底ほっとした顔で鍋を受け取る。
「悪かったね。個人的な事でこんな騒ぎになってしまって」
「百香ちゃんは見つかったんですか?」
「ああ。沙奈さん達が駅前のネットカフェで見つけてくれたんだ」
「そうですか。それは良かったですけど、何でこんな事をしたのか聞きましたか」
「いや、それについては話してくれないみたいだ」
 前川は珍しく不愉快そうな顔をした。料理を雑に扱われて怒っているようだった。
「準備してきます」
「悪かったね」
 それでもそれ以上の事を口にしないのは、前川なりの遠慮なのかもしれない。でも、夏希は違った。
「市川さん。百香ちゃんをここに連れてきてもらえませんか」
「山田さん。僕たちがどうこう言う問題じゃないだろう」
「そうでしょうか。イベントを壊そうとして、こんなに沢山の人に迷惑と心配をかけたんです。それをちゃんと分かってもらわないとだめだと思います」
 市川は俯いて考えている。
「それに、悔しいじゃないですか。美味しいものを食べてもらえないなんて」
 市川ははっと顔を上げた。
「食わず嫌いかもしれませんよ?」
「ーーそうかもしれないな。分かった。連絡してみよう」
 何とか沙奈達は渋る百香を店に連れてくる事に成功した。 
「百香、皆さんに謝りなさい」 
「新山さん。とりあえず座りましょう」
 市川が二人をソファーに座らせると、すぐに新山は百香に詰問する。
「お汁粉はどこにやったの?」
「投げた」
「な、投げたって」
「山田さん。しっ」
「投げるって、北海道弁で捨てるって意味なんです。ねえ、本当に捨てたの?」
 百香は気持ちを押し殺すように俯いている。「ももちゃん。ちゃんと、自分の気持ちを話してみたらどうかな」
 沙奈が百香に優しく言うと、小さく頷いた。百香は小さな子供のように見えた。いや、本当に中学一年生の子供だったのだ。
「パパが出て行って、ママは芋もちを作らなくなったでしょ。ママが作る芋もちはパパが大好きだったから。寒くなってきた頃にママがお汁粉を作らなくなって私は悲しかったけど、ママもパパのこと好きだと思ってたから我慢出来た」
「百香、そんな風に思ってたの」
「だって、そうでしょう? なのに、諦めたみたいに突然今年はお汁粉作るって言い出して。それって、市川さんが好きだからでしょ? そしたらだんだん腹が立ってきてーー」
 突然市川の名前が出て、皆の視線が彼に集まる。
「いやいや、百香ちゃん。僕とお母さんは同郷仲間というか、友達なんだよ」
 しどろもどろの市川も珍しいからか、周りの人達は笑いそうなのを堪えている。
「百香。百香にパパの話をしなかったのはね、ちゃんと受け止めきれないからと思ったからよ」
「受け止められるよ。もう小学生じゃないんだから」
「新山さん。無理して皆の前で話さなくても」
「いいえ。市川さん。皆さんにご迷惑かけた以上、きちんと説明をさせて下さい。それに、まだ百香は謝ってません」
 百香はキッと睨むように市川を見た。見られた市川は弱ったなあと苦笑する。
「お汁粉を食べられないようにしたかったのは、パパとの思い出を壊したく無かったからなのね?」
 百香はうんと頷く。
「それと、市川さんとママがお付き合いしてると思ったからね?」
「そうよ。だって、毎週、料理教室が終わった後で一緒に料理をしたり、ご飯も家で食べていくじゃない。それ、家族になりたいからじゃないの?」
 周りが少しざわつく。市川が小さく咳払いをした。
「市川さんはね、喫茶店での新しいレシピを相談しにきていたの。それに、皆んなで食べていたご飯は、お礼にと市川さんが作ってたのよ。有り難かったし、私が楽しかったのよ。パパの代わりとかじゃなくて、大事な友人として一緒にいたいの。料理と人を愛している市川さんは安心するから」
 そう言われた市川は複雑そうに微笑んだ。
「ママ、それって。パパを待つって事?」
 そこで、少し辛い表情を浮かべた。
「ごめんなさい。パパはもう戻らないの。パパね、実家がある北海道で働いててね。もう他に大事な人がいるの」
「えっ」
 周りも心の中では百香と同じく驚きの声が出ていたかもしれない。
「嘘。パパ、もう帰ってこないんだ」
 口に出してみて、もう一度その事実にショックを受けているようだった。
「だからこそ、市川さんは私たちの事を気遣ってくれて、今回のイベントを一緒にやってみないかって言ってくれたのよ」
「でも、だからって何でお汁粉なの。パパの好きな芋もちで。ママは辛くないの?」
「パパとの思い出を辛いままにしたく無かったのよ。それに、私もこの素朴な味が好きでね。子供やお年寄りでも安心して食べられる芋もちを、皆んなで食べようって誘ってくれたの。だから、私もイベントを手伝いたいって申し出たのよ」
 そう言って、ふっと小さく息を吐いた。何もかも一人で飲み込んできた事を吐き出せて、楽になったのかもしれない。
「百香、今日まで黙っててごめんね。ママもどうしたらいいか分からなかったのよ。でも、百香も不満はママに直接ぶつけて。全部受け止めるから」
「ママ」
 百香は涙目で俯いたが、すぐに顔を上げた。
「市川さん。皆さん。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
 深々と頭を下げて謝った。
「百香ちゃん。僕はね、君がママの料理を捨てるなんてしないと思うんだ。本当はどこにあるんだい?」
 百香は持っていたトートバッグを差し出した。中身は保存容器に入ったお汁粉だった。
「捨てられるわけないじゃん」
 市川には素直になりきれないようだ。
「良かった」
 お汁粉を市川に渡すと、百香は力なくソファーに座った。
「さあ、皆さま。お汁粉をお配りしますね」
 市川が保存容器をキッチンに持って行った。
「ねえ、百香。何でお汁粉を小豆に変えたりしたの?」
「ああ。空っぽよりびっくりするかなあと思って」
「ーー呆れた」
 後から沙奈から聞くところによると、材料が有れば作り直せるだろうと、予備の小豆を鍋に移したのだという。元々、完全にイベントを壊す気は無かったようだ。
 清水と夏希がお汁粉を配って回る。いつもの穏やかな空気と甘い香りが辺りに広がっていく。気づけば十一時。商店街の人たちが、挨拶がてら食べにきた。席は満席になる。簡易スツールも事務所から運んでくる程だ。百香も母や沙奈達と落ち着いて食べ始めたようだった。
「間に合った!」
「こっちこっち!」
 咲良と向井が待ち合わせしていた女性に手を振る。
 清水は皆にお汁粉が行き渡るのを見届けて、市川に話しかけた。
「そう言えば、電話で手配していたのって何だったんですか?」
「うん? ああ、そろそろ来るはずだ」
「え?」
「ごめん下さい。児島酒店です!」
「児島さん。奥様が大変な時に急にすみません」
 聞かなくても皆分かった。なぜなら、これまたお汁粉に負けず劣らず、美味しそうな甘い香りがしたからだ。
「いえいえ。こちらも声をかけてもらえて嬉しいですよ。どうぞ、甘酒です」
 こちらもまた鍋ごとだ。
「有難うございます。児島さんも召し上がって行ってください。今、奥様とお子さんの分を包みますから」
 児島家には五歳の息子と生まれたばかりの赤ちゃんがいる。
「有難うございます。遠慮せず頂きます。なんだか大家族みたいですねえ」
 児島はしみじみと言ったのを、皆がにこやかに笑う。
「はい、お疲れ様」
 甘酒を配り終えた前川が、清水と夏希、市川へと甘酒とお汁粉を配る。
「有難うございます」
「市川さん、さっきちょっとショックな顔してなかったですか?」
 鈍感な清水は首を傾げた。夏希が指摘したのは、新山が市川への友情宣言をした事だ。その市川は百香の隣に座っている。
「どんな形であれ、新山さんと百香ちゃんに一番近い他人なんだろう」
 前川がそう言い、冷ました甘酒に口をつけた。
「でも、分かりませんよね。これからどんな風になるかなんて」
 夏希は市川の事を応援しているらしい。
「そうだな」
 その時、客の間でカウントダウンが始まる。間もなく年が明ける。
「5、4、3、2、1、ハッピーニューイヤー!」
 わっと口々に新年を祝う言葉が飛び交う。
「本年も宜しくお願いします」
 夏希が前川と清水にぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ、宜しく」
「宜しくお願いします」
 三人はイベントをやり切った安堵感と達成感で胸がいっぱいになっていた。
「そうだなあ、次は何をやろうか」と市川が笑みを浮かべる瞬間までは。
「仕掛け人、今度は私もやりたい!」
「こら。ドッキリじゃないのよ」
 すっかり打ち解けた様子の百香と、たしなめながらもどこか愉快そうな新山を見て、このイベントは大成功だったのだと三人は核心を持てた。
「どうします? また何かやる気ですよ」
「良いんじゃないか。好きな事をさせた方が、案外平和かもしれないぞ」
 前川が甘酒で酔ったのか、顔を赤くしている。
「まあ、ストレス溜めて変な料理を作り出すよりは良いですよね」
「山田さん。ちょいちょい、口悪いね」
 二人のやり取りを見た前川がふっと笑う。
「君らもたいがい仲良いよね」
「はあ? 私はタイプじゃないですからね!」
 夏希が顔を赤らめて、さっと常連客の中へ入って行った。
「兄妹みたいって言ったつもりだったんだけど」
「前川さん。人が悪いですね」
「さ、後片付けするぞ」
「はい」
 結果的に夏希が嫌だと言った『問題を抱えたまま年越しする』事が解消された事に気付く。きっと、この瞬間から何かが始まっていくのだ。まずは目の前の大量の器やコップを綺麗に片付けねば何も始まらないと自分に言い聞かせる。
「よし、やるぞ!」
「おお!」
 市川のイベントは、最初は戸惑うけど終わってみれば楽しい気分になる。
 客の声とキッチンに残る甘い香りが、疲労感を幸せなものに変えてくれた気がした。

おわり

☆この話を書くきっかけになった、前作『激辛ナイト』もよろしくお願い致します。


#創作大賞2022

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