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”親ガチャ”という単語を心の辞書に登録できない理由を考えてみた

”親ガチャ”というワードが巷で流行しているらしいですね。
友人からこの単語を聴いたときは「なるほど、確かに子どもに親は選べないという意味では、理解できる。」と思いました。

いかにもインターネットで流行りそうなジャンキーなワードという印象。

それ以上でも以下でもない。

だけど何故だろう、私はこの単語が自分の言葉のストックに落ちてこない。自分の心の辞書登録機能は、この単語には適用できないと感じる。


余談:私と親

私自身、親との関係には割と悩んだ方ではあります。おそらく反抗しすぎなくらいの反抗もしました。いろいろな状況を経て、現在は冷静に対話が可能なくらいになっています。

もしも、反抗しているまさにその頃に”親ガチャ”という単語に出会っていたら、翌朝のホームルーム前に友人と「親ガチャ失敗だ~」とか軽口を叩いてみたり、mixiの日記にシリアス目に親ガチャという概念への感動を書き連ねたかもしれないなとは思います(笑)

でも、今現在の私は全くそういうことは思わない。むしろその単語そのものが真っ黒なオーラを放っていることしか目につかない感じがするんですよね。


ガチャってなんだっけ?

ぼんやり、そもそも”ガチャ”って何なのかと思い返してみました。
それは、ランダムに与えられた枠内の対象物を、さらにランダムにロシアンルーレットしていくゲーム(景品付き)です。

最近はスマートフォンのゲームでガチャを引く人も多くいらっしゃいますね。初期装備のすべてがSSRになるまで何回もアプリを入れ直したりすると聞いたときはかなり驚きました。

ここ1~2年ぐらいは池袋などに行くと、そこかしこに大人をターゲットにしたガチャポンが100機くらいズラっと並んでいるエリアが多発しています。(笑)
(※以前からたまにありましたが、最近は常に見かける。このご時世、対人接触なしで回せるガチャポンは便利なのだろうと思っている。)

セーラームーンのガチャポンとかがあるとジーっと見てしまいますよね。(まんまとターゲティングされているいい例 is 私)


人生ってなんだっけ?

さてはて、人生って何だろうと考えてみます。
人生、それは…

…とそんなに簡単に語れるものでしょうか?
この回答って無限に種類のある回答だと思っています。人生は人の数だけあるわけですからね。イマドキ、二足の草鞋を履いている人もたくさんいるので、これへの回答は思念の数だけ存在すると言えるのではないでしょうか。

誰一人として、私と1分1秒同じことをして過ごしてきた個体なんていない。私が生まれてから今に至るまでの全瞬間の過去ログを他人にコピーすることもできない。私は無自覚にでも自覚的にでも、重ねてきた膨大な時間の中で、好き勝手に人生を紡いでいるわけです。

ヒトという生き物として同じ時代を生きているおともだちの皆さんはたくさんいますが、みんなそれぞれの物語を生きているな、なんてことを私はいつも思うタイプです。そう、同じ”ゲーム”をプレイしている人は誰もいない。今のところ、私の人生という名のゲームを夢中でプレイしているのは私しかいない


自分の人生をプレイする人数の変遷について考える

でもこれはあくまで今のところの話で、過去には私一人でプレイしているわけではなかったように思います。生まれてから中2くらいまでの間は家族とプレイしていたと思う。

つまり、私が自分を育ててくれている人たちを「親だ」と思い、一緒に住む年下の女子を「妹だ」と思っていた頃までは、家族と一緒に私の人生をプレイしていた。あるいはプレイの手伝いをしてもらっていたように思うのです。今の私にとってももちろん家族は家族ですが、それをさらに大きく包んでいる概念は「自分以外の他者」だと感じます。私も、彼らも、ひとりずつ、自立した”ヒト”です。

ちなみに、私が「親も、他の人たちと変わらないくらい、きちんと”他人”なんだ」と思ったのは14歳の年の母の日のことです。(覚えてるんかい)mixiの日記にその話を書いたら「それはもう少し後で気づいた方がいい」とマイミクのどなたかに言われた記憶があります。(確かに、きちんと親に反抗する前にこれに気付いてしまったので少し早かったのかもしれない)

しかし、これに気付いたあと、私は私の感覚で道を選択して生きてきているような気がします。ひとりプレイモードに切り替わった感

…えっと何の話だっけ、あ、親ガチャね。親ガチャ…


時間という概念は過去から未来にしか進まない

ガチャを引くという行為は過去から未来に進むもので、ファンタジーでもない限り不可逆な現象です。にもかかわらずあとから生まれた側である子どものほうが親を選択できるかできないかの目線で語っているところに、まず違和感がある気がします。うーん、つまり「そもそも親は選ぶものじゃないっしょ。」ということです。あたりまえですね。

あと、なんだろう、きわめて安易に親…つまり他者の人生に値札をつけていることにも違和感があります。値札なんかつけてないと思われるかもしれませんが、ことスマホゲームにおけるガチャの概念には引いたカードに「レア」とか「ノーマル」とかがついているということも含まれますよね。「親ガチャに失敗した」という考え方は、裏を返せば自分の親に対して子ども側が評価を下しているということになるなと思うわけです。

そもそも他者の人生の価値を勝手に決めて優劣を考えるというその姿勢に私はたぶん馴染めない。そんなの、めちゃくちゃに失礼じゃん。長者番付を見て、その上位の人と結婚したいとか言っちゃうくらい、だいそれた感じの失礼さがあると思う。失礼というか、異次元から別次元の法則を適用しようとしているような危険さがあるというか。


ところで誰が”親ガチャ”って言ってるの?

ここまで書いていて、そもそも”親ガチャ”って誰が言ってるんだろう?という謎が私の中で浮かんできました。文脈によって意図が変わりそう。調べたけど元ネタは愚か、流行っている以前からそのワードを使ってる人を見つけ出すことはできませんでした。(調べる気が途中で失せたでもある。)

いずれにしても前世とか受精卵になる前の自分とか、そういう概念にまで視野を広げず、人体を得たあとのヒトの人生という軸で考えるのであれば、どう考えても”親ガチャ”という概念自体、場末の飲み会とか以外では言っちゃいけない考え方な気がする。


”親ガチャの成功”とはなんなのか

もしも、この単語の元ネタの人の思想が「親が神(ざっくり)だったら親ガチャ成功なのに」とかいう感じなのであれば、何かを言う気も失せるってものなんですけどね。(そこまでの覚悟とか、社会をとらえた世界観を伴う単語にはどうも思えない。

と、ここまで勢いで書いてみたけど、なんか、ちがうな…と考えています(笑)

親が神だったらとかいうのだとしても違う気がするんですよ。だって、例えばスターウォーズにおいて親がダースベイダーだったルークの人生はどうだったかとか、親が碇ゲンドウだった碇シンジはどういうオチを迎えたのかとか、そういうことを考えてみたまえよ。(ごめん。私、スターウォーズは見たことないんだけど。)そういう意味では、親に対して目立って文句を述べず、主に未来の自分からの教えをモットーに生きている野比のび太(from ドラえもん)ってすごいですね。

どんな物語の主人公にも、彼らはたぶん「親ガチャ失敗したわ」なんて言わないだろうなということを共通して思います。そういう思考回路に陥っている暇などないからです。親ガチャ失敗したなんて言って嘆いてる”瞬間”はあるかもしれないけど、そればかりでは物語が終わってしまいます。

ところで人生が私の個人的な物語、あるいは宇宙の挿話なのだとしたら、その主人公って私だなぁなんてことを今思いました。つまり全員が全員の主人公なんだよなと。あたりまえですが。


価値って何?

自分の肉体が発生して以降の自分の人生(ややこしいけどこういう書き方をしないとこの文章にツッコミどころが増えてしまうのでご容赦を)に何か普遍的な価値があるのだとしたら、現時点までにうけてきた親をはじめとする人たちの様々な教えと、自分が今、自立してここに生きているということくらいしかないんじゃないかなと思います。それは自分が稼いだお金や自分の持っている能力などでは到底ない気がするんですよね。

お金とか能力とか、そんなものはいくらでもどうにでもなるもので、それをその人の価値だとしてしまうと、人はお金がないと他者にとって何の価値もないってことになっちゃいますよ。そんなことはないでしょ。そんなことあるって人もいるでしょうけど。私はない派。

(あぁ、もちろん地球にとっての人は何の価値もないという可能性はもちろんあるけどそんなことは知ったこっちゃない。だいたい、価値のあるないに関わらず自然発生的に我々は生じてしまっているのだから、その角度のことは考えたって仕方ないんだ。)

人間関係で生じる価値を、具現化した対価(お金、地位、権力、能力、モノとかいろいろ…)のあるなしで判断する感じなのがまずついていけないなと思います。”育てた人と育てられた人”という関係から得られる価値が、育ったこと以外に何かしらあるかどうかでモノを考える姿勢がどうかと思う。

人類が後天的に生み出した概念によって生じる利益でしか、自分の人生のアドバンテージのようなものを判断できない人が多いんでしょうか。なんてことを思ったりしています。そういう姿勢には、そもそも私、馴染めないです。
…こういうことかな~。


人生に成功も失敗もねーよ

人生に成功や失敗なんてあると思います?私はないと思う。他者の人生の一端を見ただけで、その成否を決めてやろうなんて素面で(ここ大事)思っているような他者とはそもそも関わらない。

もちろん、資本主義社会というステージを仮定して、お金をたくさん稼ぐのが人生の成功なのだという文脈で話をするのであれば、その思考や会話に付き合うことはあります。でも少なくとも親ガチャという言葉を用いて自分のできなさや不運を嘆くような姿勢の人はお金の文脈でもたいして成功しないのではないかなとも思います。お金の文脈で親ガチャ失敗してても、成功できる可能性はあると思うよ。

幸せにも勝ち負けはないと思っている。幸せは個人的なものですから。幸せになるために、今自分がどのくらい有利な状況にいるかなんてことを考えているのだとしたら、その時点で相当不幸な思考の状態なのではないかと思いますね。あくまで状態なので、抜けようと思えば簡単に抜けられるわけですけども。


こんな社会現象はイヤじゃ!

ここまで書いてみましたけど、みんなそんなに頭悪いわけじゃないんだから自分の親は自分で”選ぶものなんかではない”ことぐらいわかってると思うんですよね。

しかも「親ガチャ失敗だ~」という発言が、そんなに深く考えた発言でもないのもなんとなくわかる。でも、それはつまりその発言の意味について深堀りして考えないうちは、自分がまだ自立していない人間なのだと気づけないってことなんじゃないかなと思います。学生ならわからないこともないけど。

自分で選択不可能で、かつ一生本当の意味で切り離すことのできない存在である親を失敗だとすることは、自分の存在そのものを失敗だと言っているようなものでもあるとも思う。それが社会現象になってしまうと、社会には生ける屍のようなメンタルの人がたくさんいるってことになるな。

もしもこれが本当に社会現象なのだとしたら、さっさとだれか「愛はガチャではひけない」って小説を書くなりヒットソングを作るなりして社会現象にしてくださ〜い。

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