「与える人か受け取る人。あなたはどちらになりたい?」~中島岳志著「思いがけず利他」より~
留学中、授業のインタビューを受けていた時、ふいにこの質問を投げかけられた。ビデオガメラ越しに見つめられるキラキラした目を見て、私は喉の奥が詰まる感覚がした。なぜなら、聞かれた質問に登場する2つの言葉が、自分にとってはどちらも遠い言葉だったからだ。
「giver」つまり「与える人」とは、私にとって「助けられる人」「救える人」とほぼ同義だった。私は誰かを助けるためスキルを何一つ持っていないと思っていたので、「与える人」は高い山頂のような到達できない場所だった。
「taker」つまり「受け取る人」とは私にとっては「助けてもらう人」。安直な私はそれを「弱い人」と同義で捉えていた。
弱い人になってしまうと、助けてもらった人がいなくなったときに自分を維持することはできない。だから、自分は強くあらねばならない。そう強く信じていた私にとって、「taker」という言葉は、今すぐにでも遠くに押しやりたい、いわば夏休みの宿題のような存在だった。
そんな言葉のイメージを一生懸命消化している私とは裏腹に、隣でインタビューを受けていたケニア人のクラスメートは「giverっしょ」と至極シンプルかつ軽く答えた。
「えええええええ!? なんでそんなに軽く…!」と驚きにさらに喉を詰まらせながら、私は苦し紛れにこう答えた。と記憶している。
そう答えたとき、インタビュアーだった友達は「素敵な答えね」と微笑んでくれて、私は胸をなでおろした。私の困惑がなんとかごまかせたと思ったからだった。
あれから、約3年。
私はもう一度この問いについて考えることになる。
なぜなら、一冊の本に出会ったからだ。
「利他」という概念に導かれて
きっかけは卒業研究だった。「地産地消を促進するために消費者はどう在ればいいのか?」という問いに取り組んでいた私は、「利他的な消費を促すためにはどうすればいいのだろう?」という問いにぶつかる。
そんな時、先生が紹介してくれたのが「『利他』とは何か?」という本だった。
この本は題名の通り、「『利他』とは何か?」という問いについて、様々な有識者の人が寄稿している新書だ。美学の視点や、小説の視点、言語の視点などそれぞれが全く異なる観点から「利他」について探求しているが、言っていることはおおむね共通していた。
それは、「誰かのために与えたものが「利他」になりうるとは限らない」ということだった。
「えええええええ!?ならないの!? じゃあどうするよ…。」
と壮絶に突っ込みを入れつつも、なぜか心のどこかでは納得している自分もいた。
というのも、私は昔から両親に「人のためになることをしなさい」と言われて育ってきた。だから、人のためになることをすることが美徳だと信じていたし、自分の行動指針にもなっていた。
でも、10代になったあたりから、その言葉に苦しめられる。
自分がその子のためになると思ってしたことが、無視される。もしくは、迷惑がられる。そして、私が困っている時は誰も助けてくれない「ゆり賢いから大丈夫でしょ」と苦笑される。
私が一生懸命あなたのためにいろんなことをしているのに、なぜだれも助けてくれないのだろう。そうやって「見返り」が来ない焦燥感から、おせっかいがどんどん増え、友達は自分の思いがけない行動をして、静かに傷つく。そんな悪循環が続いていた。
「人のためになることって、いったい何だろう?」
その答えを、私は心のどこかで探して求めていた。
その問いに対する答えが、「利他」と関係しているのではないか。
「利他」という概念に興味を持った私は、新書に寄稿していた中島岳志先生が「思いがけず利他」という本を出したという情報を見つけ、読んでみることにした。
利他は「受け取ったとき」に発動する
中島岳志さんの「思いがけず利他」は題名の通り、「利他とは何か?」について議論されている。議論では難しい理論ばかりではなく、落語の話や著者自身が体験した経験も多く登場し、共感できるエピソードも多い。
「利他」についてはその偶然性や人間の業など様々な視点が触れられているが、私が特に面白いと思ったのは、「利他が与えたときにではなく、受け取ったときに発動する」という話だった。
中島先生は本の中で自分の体験を紹介した上で、こう話す。
利他は与えたときに発動するのではない。受け手が「これは自分のためにやってくれたことなのだ」と「受け取った」ときにはじめて発動する。だから、利他には時間差も発生するし、それが発動するとも限らない。偶発性に満ちたことでもあり、利他の主体は実は「受け取り側」にあるのではないか。という指摘だった。
この言葉に出会ったとき、私は拍子抜けするような納得感を持った。
以前から持っていたある種の「解放感」の意味がわかったような気がしたのだ。
本当に学んだのは、帰国してからだった
私が小さい頃から人のために何かしたくて、自分のバランスを崩していったことは先述した。相手のことを思うあまり、自分の許容範囲を超える仕事や頼まれごとを引き受け、結局一人で立ち往生し、体調を崩す。そんな波の多い日々が私の日常だった。
そして、それが例え人に迷惑をかけていても仕方がないことだと思っていた。だって、人のためにやっていることで、自己犠牲は美しいのでしょう?と。
しかし、実はそんな日々が数年前から少しずつ減ってきている。「誰かのために!」という前のめりな想いが消えてしまったのだ。でも、それは「自分のために」となったわけでもなく、「自分が居心地よくしていれば、意外と人も居心地よくなるよなあ」という気持ちに変化していた。
私は他人に興味を持たなくなってしまったのか。自分中心な考え方になってしまったのではないか。そんな怖さを持ちつつも、そのスタンスは周りにも好評で、人との関係性は穏やかなものになった。
この変化の要因はこの本から容易に想像できる。
なぜなら、私は留学で「受け取ったもの」を知ったからだと思う。
私は3年前にデンマークに半年間留学していた。当時学んだこともたくさんあるのだが、それ以上にわからない言葉がとても多い印象だった。
当時こんなことをたくさん言われて、私には皆目意味が掴めなかった。「もっとわかりやすくいってくれない?」と頼んでも、みんなは「いずれわかるよ」と微笑んでいて、私は禅問答をしに留学に来たんじゃない!と怒っていた。
でも、留学から2年たった今、私はその「わからなかった言葉」からたくさんの学びを得ている。
弱いところがギフトなのは、弱いところを補いあうことで人とつながることができる孤独にならないツールであるということ。
変化を作ることも大切だけど、その前にそのロールモデルとなる背中が必要で、「変化自身になる」ということは誰かを巻き込む嵐ではなく、だれかの明かりをともす光になりうるということ。
人が成長し続けることを促すのが持続可能な社会なのではなく、いろんなひとが居心地よく暮らせる社会を作ることが「持続可能な社会」なのだということ。
気が付いたら、私は3年前にもらったものを、やっと「受け取った」のだ。
そして、「どうしてあの時気づかなかったんだろう」という後ろめたさと同時に、やっと与えてくれた人と繋がれたような気がして、「ありがとう」と今は直接言えないあの子に心から感謝した。
この経験は、私に「与えたものがいつ発動するのかなんてわからない」ということを体感として教えてくれた。だから、私は「誰かのために!」という想いよりは、「まあ、いつかわかったら、それはそれで面白い。」くらいで人と接するようになった。
自分の意見を相手に突き付けるのではなく、相手と自分の間のテーブルに置いておく。私のコミュニケーションにはそんな余白が生まれた。そして、その余白は私の心も風通しとよくし、人間づきあいも負荷がかからなくなった。
「人のためになること」が「与えること」と同義になったのはいつからなのだろう。そして、いつから私たちは「与える側」を「受け取る側」よりも少し高く見積もるようになったのだろう。私たちは「ありがとう」と反応してもらった時に、はじめて自分が人に何かを与えたのだと気づく。つまり、反応する「受け手」がいて、はじめて成立するものなのだ。
だから、「ありがとう」はかけがえのない。大切な言葉なのだと思う。
「あなたからちゃんと受け取っているよ。」そう伝えることで、「利他」が発動し、私たちはつながる最初の一歩を踏み出すのだから。
「Taker」の先に「Giver」がある
3年たった今、私はもう一度その言葉を自分に投げかける。
私の今の時点での答えはこうだ。
人は受け取ったときに、はじめて誰かに感謝する。その感謝には「自分に向き合ってくれたのに、今まで気づかなくてごめん。」という一種の後ろめたさがある気がしている。たった1回の人生の時間を少しでも自分に割いてくれたことに、若干の罪悪感のようなものを感じる。
そして、それを返せないとわかったとき、人は居ても立っても居られなくなり、まただれかに何かを与えなくなる。それが「利他の種」なのだと私は思う。
だから、私はそのうしろめたさをしっかりと感じ続けられる自分でいたい。だから「受け取る側」でもありたいし、種をまき続ける「与える側」でも在り続けたい。
そう考えていると、ふとこの質問も私がやっと受け取れたのかもしれない。
当時ごまかしてしまった自分に恥ずかしくなりつつ、今はもうお礼を言えないあの子に、静かに感謝し、祈る。
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