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小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている』と辻田真佐憲『日本の軍歌』を読んで。

 ”啓蒙”的な活動は「ことば」でのコミュニケーションに頼りすぎているからこそのねじれや、語れば語るほどにコンテクストが共有できなくなるジレンマがあるということに気づかされた2冊です。おそらく仕事中、誰かへの「お願い・依頼事」がうまくいかず、場合によっては嫌われる”根回し”がなければ物事が進まないのもこのせいかと感じさせられました。

 人にどう動いてほしいかの”最終結果”から逆算するのであれば、「順序だててロジカルに話せばわかる」というのは時として幻想でしかなく、結局話せば話すほどお互いの溝が深まる残念な結果にならざるをえず。

 ふるまいや動きがかわれば、人と人の関係性、関係性も連動的に変わって、結果考え方や思想にも影響するということを前提に「いい方・伝え方」を考えるには言葉じりのニュアンスのみならずどう状況に応じた”メディア”を駆使するかを吟味できるようになりたいなぁと思いました。メールやSlack云々でのテキストコミュニケーションに何を書くか、「どうもwこの前そこのラーメン屋でね」みたいな本チャンの要件語らずキャラ売りしたり、要件の周辺情報の”ニュアンス”伝えたり。「核心」「要件」の周辺にどれだけの広がりと網目をもって、「核心」に帰ってこれるかみたいな一見ムダなノンバーバルコミュニケーションスキルを上げたいと、この本読んで思いました。

 『チョンキンマンションの』で書かれる経済活動のインフォーマルさが、いかに人々の実質的な生活や経済などの課題に正面から向き合えるように機能しているかであったり、わかりやすく煽っていくスタイルの扇動広告だけでなくて、日常に慣れ親しまれた「普通の娯楽」であった軍歌がじわじわと20世紀初頭のナショナリズムを喚起していたり。いかに「ことば」以外のコミュニケーションがある種「合理的」に機能したり、その契機となっているか。

 仕事では「ことば」がなければビジョン・目的が共有できず、結局なんのためにやるか腹落ちできず動けないこともあるからこそ「ことば」の吟味は重要な一方で、「ことば」は万能のツールではないからこそ、身体や空気、言語以外のコミュニケーションと一緒に丁寧に考え使わなければいけないかをちょっと考えさせられました。

 ”根回し”というべきか、”事前の打診”というべきか”「来週の会議では○○のことみんなで相談しようかどうか決めかねている状況で」と会議参加予定者全員と3分とりあえず喋っておくこと”というべきか。”目に見えない家事”と同じで、こういう”目に見えない業務”をもう少し体系化させられれば、人材・人員不足の中小企業の意思決定と情報共有がマシになるのでは。

 書き言葉から立ち現れるコンテクストを、みんながみんな読みに行けないし、全くコンテクストなく発言されたものに先手を行く忖度的な姿勢で勝手にコンテクストが見出されるからねじれが生じたり。もう少しコンテクストを共有できるような時間の共有ができる仕組みをどうにかつくれればいいなぁ・・・。


○小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』春秋社2019年

○辻田真佐憲『日本の軍歌 国民的音楽の歴史』幻冬舎2014年

○辻田真佐憲『たのしいプロパガンダ』イースト・プレス2015年

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