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≪わたしごと74≫日本人の"もの観"って独特?

美術館で修復のお仕事をさせて頂いていた時、いろいろな種類の "もの" に出逢った。私はちょうど収蔵庫の移転に関われたので、展示されていないひっそりと眠っているもの達を、点検・修復する機会を得ることが出来た。

ライティングされて展示されているものとは違って、これらのものは30年前から誰にも触れられていないと思われるものまであって、かなり渋くひっそりとしている。

それはインドのシバ神の像であったり、イランの壁画の破片だったり、トルソと書かれた石ころ、無名の男性のデスマスク、日本の人形やガンダーラの仏像。象牙の箱や、漆塗りの家具、ダチョウの卵の線刻や、良く分からない屋根の一部分。

負傷していているもの、埃をうっすらかぶっている箱、Fragile! と前に点検した人の注意書き。静かに劣化していくもの、何百年というものが内包している物語。

コンサベターのお仕事にはいろんな種類のものがあり一概には言えないけれど、ひとつのものと対峙する時間は普通と比べるとかなり長く、20時間とか40時間とか、あるいはもっと長くものに向き合ったりする。

そうして修復していく時間は、体験的に "ものとの対話" と表わすのが一番しっくりくる。私はバックグラウンドが工芸で、つくる方をやってきている経歴があるが、つくるのもつくるので "素材との対話"というのがしっくりくる。

日本人の "もの観" は、何か独特のものがあるのだろうか?

これは未だ海外出身のコンサベターの同僚とは話せていないトピックだけれども、私は保存修復をする時に、ものに対する畏怖の念というのはどこかしら持っている。

ものに命が宿ると言うけれど、私がはっきりとものに命を感じるかと言うと、どうなのなろう?と良く分からない。よく海外の人に、日本人は神道だから全てのものには魂が宿るんでしょ?と言われるが、私たちは本当の所、どう直感的に感じているのだろうか?

例えば大理石の肖像が"生きている" とは思わない。けれど、日本刀の妖しさには何かが息づいている、かも知れないと感じる。大きな岩とか、樹齢何百年の樹木とかに向き合うと、畏敬の念で何か人間を越したものを感じるのは、日本に限らずどこの国にもある様な気もする。

けれども、例えば私がものを修復していて、なにかものに敬意を払おうとするというか、粗末にしたらバチがあたるような、人から見えないところまで丁寧にやろうとしたり、劣化し壊れた自然に愛おしさを感じたり、そのように感じる事は、私個人の感じ方というよりも、なんだかこれは日本人だからか、例えばヨーロッパの人ってそんな風には思わないのか、いろいろ気になる事がある。

これってどこから来たのか。わび・さび、諸行無常、禅、言霊、ものづくり、ものの哀れ、もののけ、仏教、神道、色々あるけれど、結局今私たちは、ものと人をどの様にとらえているのだろうか、どの様にとらえて行ったら良く生きられるのだろうか?

価値観や考え方というのは、大きな危機や困難にぶつかった時に大きく変わったり、見直されたりするけれど、世界的なコロナ危機で私たちの価値観や世界観、人生観はどのように変わるのだろう。

私の5才の姪は去年の引っ越しの際、お母さんと扇風機を捨てに行って、さよならする時に泣いたらしい。扇風機なんてそんな愛着を持つほどのものでもないだろうけど、時間を共に過ごしたものが無くなるというのは、それでも淋しいかもしれない。ものも人も大事に繋がる世界観が共有されれば良いなとは思う。

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