アラジン珈琲店【X版】⑤《人の成功vs失敗。耳を傾けるべきはどっち?》
⑤《成功vs失敗。耳を傾けるべきはどっち?》
「35000回?」
驚きを見せる翔子に芽衣は、平然と話した。
「その倍の7万回、それ以上判断をしていると言う方もいらっしゃいますわ。」
「7万回?それ以上。それって脳の回転の速さによるのかしら?おばあさんおじさんと、20代の人の差かしらね?一日にそんなに何某かの判断をしているなんて、自覚、まるでないわ。」
「あら、80代を超えても20代なみの認知機能を備えている方はおりますわ。ですから、一概に年齢によるとはいいきれませんわね。」
「そうだったわね、芽衣さん。脳の神経細胞は運動や食事、意識の持ち方のによって増幅成長を続ける。BDNFよね。」
「うふふ。『常に一歩先を目指す。昨日の自分よりも一歩でも前進する。』その姿勢がスーパーエイジングの秘訣らしいですわ。」
マスターが45度ほど上方を向いて感心の体を示した。
「いいですなぁ。目指したいものです。」
マスターは正面に向きなおった。
「しかしにわかには信じがたいですな。一日24時間、その間にそんな多くの判断をしているんですな。ということは、この今も話す以外になにやら複数の思考や判断が起こっているのでしょうな。睡眠中は・・判断しているんでしょうかな。」
マスターは、問を発しようと思ったが1,2秒で自己解決した。
「しているのでしょうなぁ。記憶の整理は寝ている間に行われているそうですからな。記憶を取捨選択する判断を行っているのは、脳。寝ていても脳はエネルギーを消費しますから、生体機能維持目的のエネルギー消費以外にもやれ、この情報は必要な情報だ、其の情報はいらない情報、と甘美な睡眠中のほぼ完全なる無意識中にも判断が行われているのでしょうなぁ。あぁ、春眠暁を覚えず。しかし、判断の数の多さにそもそも気が付いていないということ自体が、ほとんどの判断が無意識に行われているってことの証と言えますなぁ。」
マスターが抑揚のきいた重低音の声を発する都度、一筆書きで上空へと弧を颯爽と描いたような長い髭が揺れた。翔子は白煙が霧のように立ち昇る薔薇模様の珈琲カップに手を移した。
「知らない間に無数に行われる判断や思考が、本来の望みとは異なる方向へとわたしたちを運んでしまいますのね。望みなどしませんが、鬱や社会生活が問題になるほどの不安症はもちろんのことですけれど、モラハラ、DV、経済的な困窮、それからいじめ、過度の対人不安、病気、耐えがたいほどの孤独。どれも無意識的に存在する思考や判断の結果と言えますわ。」
芽衣が言うと、翔子が嘆息まじりで呟いた。
「なんだか、現代に生きる人類の生き地獄リストね。無意識のうちにそんな場所に運ばれていくなんて、希望が感じられないわ。」
「あら、気を悪くなさらないで。絶望がありますと、必ず希望がありますわ。事実、翔子さんだって、今はお元気でいらっしゃいますわ。マイナスにぶれれば、必ずプラスへ動くことが可能ですもの。勿論、そのまま何もしないと変化はしませんわ。さ、翔子さん、マスターの珈琲、召し上がってくださいな。明るい思考に照明をあててくれる魔法の珈琲ですから。」
「魔法とは実に嬉しいですなぁ。しかし、それが現代社会の闇の一面なのですから、そこを現実逃避ではなく正面向いて直視して、それから光をあてていかないことには改善はありませんな。光とは、結局己をより良く知り、自らをありのまま受け入れること、ですかなぁ。そこから改善への変化が始まる。無意識のことを今よりも知ることも変化を促しますな。」
「無意識に行われる判断のネガティブな偏り。希望しない未来へとわたしたちを自動的に運ぶ無意識の中の思考の偏り。ほんの少しのネガへの偏りでも一日7万も繰り返されたら、本来充足感のある豊かな日々へと続く道が賞めにすっと伸びているとしても少しずつずれて違う蛇の道、茨の道へ迷い込んでしまいそうね。たった0.001度の傾きでも7万回だったら・・・70度ね!?気がついたときには、軌道修正がままならない藪蛇だらけ、とげだらけの世界。」
ここまで言うと、薔薇の模様があしらわれた華やかな珈琲カップを両の手でつつむ手に翔子は視線を移し、呟やくように話した。翔子の口元と目元には微笑があり、それは子を見守る母のものだった。
「なんだか思い当たるわ。のりきったんわけだけど、なければないにこしたことはない経験。確かに内面の飛躍的成長をもたらしてはくれたけれど、娘にしてほしいなんて、間違っても思えない。」
芽衣は翔子が過去に思いを馳せたのを察し、新緑の若芽から風がふくように言った。
「うふふ。同感ですわ。誰かに経験してほしいなんて、到底思えません。同じ経験をしてほしくないですわね。」
マスターも話に乗った
「『人類は、文明の発達の速度に追い付かず、精神に問題をきたすものが現れた。しかし、それも人々が己をより良く知り、人をより良く知り、共存共栄、相互尊重、慈愛精神の普及と浸透により、精神問題の発生率はいまや、0.01%をきることとなった。』そんな未来が来ることを夢見ますな。」
マスターの言葉にXが応じた。
「素晴らしく豊な世界ですね。そんな世界を体験してみたいです。」
「まずは、この自分から始める事が大切ですわね。よりよく己を知れば、自分が変わるように、集団の中で、自分のことをよりよく知る人が一定数を超えたとき、臨界に達して世の中がきっと変わりますわ。」
「そうかもしれないわね。個人の変容は、周囲にも影響する。でも結構な深みにはまっていたと思ってて、そこから出るまでかなり個人的には変化したと思ってるけれど、おそらく周囲はそこまで変化していないのよね。今思えば、一人で天と地獄を考え方と見方だけでひっくり返しただけみたい。」
翔子が幸福まじりの溜息をつくとマスターは、飄々と答えた。
「バラエティーに富んだ世界を体験する、それは在る意味才能ですな。」
「才能?生き地獄を味わうのが、才能?」
翔子は驚きを見せた。
「ははは、そうですよ。才能ですな。大抵の人は、そこまで落ち込めませんからな。その性質をポジティブに生かすことができれば、翔子さんはもっと生き生きと日々を過ごすことができるようになりますよ。その方法はいずれお話しましょう。X君がまさにその性質を才能として開花させた人ではありませんかな。」
「俳優さんの感性の豊かさは、誰もが知るところよね。そういうものがわたしにあるのかしら。まっ、お話、期待して待ってるわ。誰かの役に立つ才能だったら、自己イメージ底上げできそうだわ。それにしても大きな修正が必要だった。もっと正確に言えば、小さな修正の連続が今に結びついてる。あそこは何だったのかしら。」
翔子はしばらく沈黙したかに見えたが、思い返したように口を開いた。
「あそこは穴だって思っていたっけ。暗くて冷たくて分厚い何かでできてる穴。出口のない穴右も左も前も後ろもない。自分がどこにいるのかもわからない。どこにいけるかもわからない。先が見える道じゃないの。そしてそれが永遠に続くとしか考えられなかった。壺の中。ほら、芽衣さんが先日教えてくれた壺中の天地だったらいいんだけれど、どこに埋められたのかも不明で、GPSも付けられていなくて、それでいて地中深くに埋められた釜竃に閉じ込められたなんて思ってたわ。」
「壺中の天地?なんですか、それは。」
マスターが聞いた。
「ちょっとした小話よ。後漢の時代に費長房が市中で薬を売る老人に会ったの。その老人は商いが終わるといつも壺の中に入っていいたんですって。それで興味をもった費長房は一緒に中に入れてもらったら、その中には御殿があったの。そこで美酒にご馳走を楽しんでたって話。封じ込められたと思ってもそこを楽しめるのなら、怖いものなしよねってっ話だったわよね、芽衣さん。そしたら、芽衣さんはお酒よりも御紅茶がいいわっておっしゃったのよね。」
「うふふ。御紅茶がいいですわ。あのお話は、結局は何を言いたかったのかしらね。何事も考え方や捉え方次第だってことかしら。」
「分からないわ。分かるのは、あそこでは美酒にもご馳走にも気が付かなくて温かい陽光がこれっぽちも感じられなかったってことと、永久に永遠に出られないと思っていたのに、思えばいつのまにか出られたってこと。『人間に不可能はないのだよ。』なんてマスターの台詞が真実味を帯びた瞬間だわ。」
「実にそのとおり、『人間に不可能はありませんよ。』」
マスターだ。
「あ、Xさん、ごめんなさいね、過去を語るのはもちろん、自身のことを語ることも憚る性質だったはずなのに、この珈琲店に来てから過去についても今についても未来への希望についてするすると口から出るの。死にたい、辛いなんて経験聞きたくないわよね。きっと魔法の珈琲のせいね。」
「ははは。分かりましたか?そうですぞ、魔法の珈琲ですぞ。人に鵬のごとく広き視野を与え、万巻の書の智慧を開く明晰性をもたらす。」
「珈琲頂いていますから、じきに僕もはなしだすのかもしれません。」
Xはフォローに入ったが、なまじ嘘でもないように思った。
「それに、人は失敗から学ぶことが多いですわ。人様の成功よりも失敗からの方が学ぶとききます。成功への道は無数にあっても失敗には共通点の割合が圧倒的に多いそうですの。」
「らしいですなぁ。成功者の発言を科学的な検証として相応しいほど集めてみると、確かに共通点は見られる。しかし、個人個人となりますと、成功ルートはみな違いますな。一方で、個人に落とし込んでも失敗の共通点は多く見られるそうですな。ですから、母数を増やすのなら成功者に成功法則を聞くこともいいですが、限られた数の成功者に耳を傾けるとすれば、それは成功ではなく、失敗談。」
「あら、わたしの場合、ビジネスの失敗ではなくて人生の失敗よ、それから思考の失敗。人様のお役に立てるの?」
「ビジネスに限ったことではありませんよ。失敗こそ役に立ちますよ。」
「あら、それは結構嬉しいことね。」
翔子は、いつものニヒルさとそれよりも勢いを強めた幸福感の両方がにじみ出る微笑をした。
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