【短編小説】氷 -2023年の終わりに- 4(終)

最後の日がもう少しで終わる。12月31日、空は取り残されたような紫色。それはどんどん黒く焦げて変色してきている。変わらず明日は来るだろうけれど、僕はこのまま今日に取り残されてしまうんじゃないかという不安を抱いていた。再び僕は自分を喪失し、抜け殻のような有様で新しい年を迎えるのだろうか。それを何度も繰り返し、いつしか僕は燃え尽きてあの夜のような暗闇に消えてしまうのだろうか?

サトミの影が激しく揺れる。彼女は僕の胸の内を飛び回り、僕ら6年間の記録を引き出しからぶちまけた。僕はまるで首を絞められている。呼吸が苦しい。去ったばかりの病熱がもう一度僕を燃やし始める。めまいがある。吐き気も少し。感情の蓋がまた閉じられようとしている。孤独の色が揺らぎ見えなくなってきている。言葉にひびが入る。僕らは本当に終わってしまった?通り過ぎたあの微笑みの裏に何を思っていた?僕はまだ空っぽだったのだろうか。

あの後僕は自宅に戻った。新宿駅のホームで電車を待つ時間があまりにも長く感じられた。焦燥はまるで電車内に佇む僕を追い越してしまうような速さで行ったり来たりしていた。僕は自分の感情のしっぽを離さないように必死で、窓の外の景色なんて何も見えていなかった。ただひたすらに彼女のことを考えていた。僕はまだ彼女のことを忘れられなかった。だけどどうしようもないことに気づいた。終わり以外の道はすべて行き止まりだった。僕は最寄りの改札を出て、家までほとんど走るようなスピードで足を動かす。

視界が生ぬるくぐらついている。見慣れた部屋が怪しく不安定になっている。体温計を使わなくたってわかる。再び背筋の凍るような熱が全身を包んでいた。一度付けた明かりを消す。そしてもう一度つける。まだ僕は変わらずにここにいる。ベッドにスマホを放り投げる。パソコンの電源を入れる。画面が光った。僕は氷を食べた。3つ食べた。歯が悲鳴をあげても気にしない。火照る体にはその冷たさが痛みのように感じられた。鋭く食い込み、そして霧のようになって指先まで広がっていった。眼球の裏で青い色がわずかに光る。涙が出そうだった。

僕は画面内の真っ白な用紙に向き合った。僕のそれぞれの指がキーに触れるのを宙で待っていた。井戸の深くから感情を引き上げようとする。言葉が生み出されるのを僕は待っていた。僕は僕を待っていた。僕は言葉を紡ぎだそうとした。

 

しかし何も生まれなかった。

言葉はガラクタのようで、何ものにもならなかった。物語は始まらない。僕はそこから自分を見つけることができなかった。

石像のようにその場で停止する。だけど時間は過ぎていく。新しい、だけど代り映えのない明日が近づいてくる。僕はすでに燃え尽きてしまったのか?サトミはきっと気づいていたのかもしれない。僕にはもう何も残っていないことを。

「何もない。僕は空っぽだ。」

それだけを書いて僕はその画面を閉じた。保存しなかった。

失意の憂鬱でぼーっとする。考えることもできず、その場から動くこともできない。僕は自分の存在を肯定的にとらえることが困難だった。もちろんそんなもの誰にだって否定することができないことくらいわかっている。でも僕は僕でいたくなかった。死にたくはない。だけどこれ以上自分として生きていたくなかった。僕はいつだって不安で、人と話すのが苦手で、不甲斐なくて、だから大好きな人とももう会えなくて、長いことうまく眠れなくて、大好きだったはずの文章ももう書けなくなって、どんどんできないことが増えていく。だから自分が嫌いだった。

このまますべて無為に過ぎて、僕は空気のようになろう。暗闇に溶けて何も感じなくなろう。幸せも苦しみも最初から見ない。それでいい。

そうしてかすむ視界でフォルダの過去の作品たちを眺めていると、一番下に見慣れない名前のファイルがあることに気づいた。すべてタイトル名がついたフォルダになっているのだが、それだけがどこにもしまわれずに置かれている。タイトルは「新規作成」のまま。最終更新は2023/12/17。僕は久しくこのUSBを見てすらいなかったのだから、このファイルは自分が作成したものではない。僕はそれをクリックした。

 

「おかえりなさい」

「これを見てるってことは、また書くようになったんだよね」

 

ああ、それはサトミからのメッセージだった。

 

「手紙とかこういうのとかあんまり得意じゃないから、きっとうまく伝えられないと思うんだけどね。ごめんね。てかこれっていつ読んでくれるかわかんないんだよね。もしかすると一生読まれること、ないのかもしれないし。私のことなんてもう忘れてるかもしれないよね。えっとさ。これは2023年に朝香聡美(今書いてる私のことね)が残した最後のメッセージだよ」

「私は、
(名前を打ったらなんでか切なくなったから「あなた」って呼ぶね) 

あなたの書く小説とか日記みたいなのが本当に好きだった。私はこんな感じだからあなたはいつも不安そうだったし、困ったように笑ってた。ごめんね。あなたは直接想いを口にするのは苦手だったから、寝る前とかにちらっと書いてるものを見せてくれたよね。私はそれが楽しかった。言葉を通すと、あなたのことがもっとよくわかったし、それの一つ一つがキラキラしてたんだよ」

「でもいつからかそういうことが減ってきちゃった。仕事が忙しくて、心を失くしちゃったみたいだった。すれ違って、私たちは取り返しのつかないところまで来たような感じがした。私はあなたのことがわからなくなった。不安だった。悲しかった。あなたを助けたかった。だけど私はあなたのように気持ちを文章にすることができなかった。国語の授業、もっとちゃんと聞いてたらこんなことにならなかったかな?私もそうやってあなたに好きを伝えられてたら、あなたは一人で迷子になったりしなかったかな?」

「ごめんね。もう私は自分の気持ちも見えなくなっちゃった」

「でも、きっとまた新しい物語を作れるようになったんだよね?私は何もしてあげられなかったけど、あなたがここに戻ってきてくれたなら本当にうれしい。どうか書き続けてほしいし、いつかあなたに大切な人ができたらその人に見せてあげてね」

「私はあなたといれて幸せだった。あなたがこれを読むのが何十年後だったとしても、私はあなたのこと忘れてないと思う」

「ありがとう。さようなら」

 

僕は画面を消して静かに立ち上がった。何も聞こえない。部屋の外からも心の内からも。思考に霧がかかっている。細かな青白い雪の結晶がその不透明の中に舞っていて光を放っている。その先に何があるかは見えない。体はまだ熱を帯びている。僕はうまく考えを巡らせることができない。

だからまた冷凍庫の氷を口に入れた。舌の上を滑らせる。それは小さくなっていく。それから噛み砕いて飲み込んだ。もう一度繰り返した。熱い。僕の影はすぐ近くにいるはずなのに、姿をとらえることができない。さらに一つ食べようとしたがもう残りがなかった。僕はベランダに出た。

最後の夜は沈黙に包まれていた。どこまでも黒い底なしの穴に、画鋲跡のような星が点々と浮かんでいる。僕は吸い込まれてしまいそうになる。だからベランダの手すりを強く握った。このまま抵抗するのをやめてしまえば、僕は渦の中心で自分を見失い続け、一生暗闇の中に閉じ込められる気がした。

僕はじっと、光のない空間で冷気を感じていた。皮膚の毛穴の一つ一つが張り詰め、肺が冬で満たされた。震えは指先から胸の奥へ進軍する。それに伴って思考の靄は晴れていく。光の粒が鈍く瞬き、青く鋭い線をあちこちに反射させる。鮮明になっていく。痛みが感覚を動かす。感情が凍り付いて美しく輝く。具現化し固定された孤独が力強く体内で脈打っていた。僕はひたすらにその過程を感じていた。

サトミに別れを告げなきゃいけない。僕らは二人でたくさんの幸せな日々を過ごし、そして傷ついた。元に戻ることは不可能だ。すでに二人は出口を出て扉を閉めてしまった。彼女は一人で歩き出した。サトミは最後まで僕のことを考えてくれていた。だから僕も歩き出さなくちゃいけない。ここに立ち尽くしていても何も通り過ぎはしない。終止符を打たなきゃいけない。

僕は自身が氷のようになっているのを感じる。夜明けを先取りしたような冷たさをまとい、僕は僕を見つけ出した。決して融けない氷は夜に照らされて澄んだ藍色をしていた。新しい一年を僕は迎える。

再びパソコンの前、姿勢を正して白紙が広がる画面に向かう。僕は言葉を落としていった。サトミへの別れの手紙を書いた。彼女に届くことはないけれど、丁寧に感情を拾って、文章を作った。手が震える。それでも思い出は絶えずあふれて流れる。僕はそれを物語に変えていく。涙は出ない。必要なかった。長い時間をかけて、僕は彼女との生活の終わりを記した。感謝とさよならを最後に綴った。僕は数度読み返して手直しをした。そしてそれは完成した。

 

これで終わり。

 

僕はUSBに記録していたすべてのデータを削除した。なつかしいはずの僕は、あの頃に抱えていた色とはまた違う色彩を帯びていた。でもそれはやっぱり不安定でゆらゆらと揺れている。僕は部屋の電気を消し、ベッドに横になった。2024年がすでに始まっていた。月の明かりがカーテンに掬われ、ささやかな光の跡が部屋の中に漂っていた。

 

どんな一年にしたい?それは目が覚めてからゆっくり考えることにしよう。


終わり

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