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夜明けに流すあなたとの日々

そのことばは夜明けへと続く。誰にも届くことはなく、風にさらわれた赤い花びらのようにどこかへ消える。

彼は待っていた。自分のために作られた居心地の悪い部屋で。山積みの教科書と新品の課題。彼は彼女を待っていた。家族はすでに寝室へと引き上げ、安らかに明日を迎えようとしていた。

眠気はない。明日も退屈な一日。朝、教室に入れば、彼女はいつものように奥の窓際の席に座っているだろう。それでも退屈なんだ。きっと、昨日よりもずっと。彼女はいつも通り、笑っている。でも、もうただのクラスメートなんだ。僕らはたった一日で、どうしようもなく離ればなれになってしまったんだ。彼は繰り返し思った。

本当は退屈なんかじゃなかったんだ。僕はそれに気づかなかった―

彼は待っている。彼女が自分の中から消えていくのを。電気を消し、石のようにじっと。部屋の明かりに照らされ、弱々しい手の甲がそこに見えるのが嫌だった。身体が、そこにあるのが嫌だった。彼女を繋ぎとめられなかった、その手が、その足が。

夜は思ったよりも静かだった。栓を誰かが引っ張り、空気が残らず流れてしまったかのようだ。外からは車の走る音も、誰かの話し声も聞こえない。その氷のような静けさが、彼の耳には冷たかった。

静寂で騒ぐ声。頭の中、彼女の声だ。彼女は日記を読むように、毎日の他愛もないことばを繰り返す。もう二度と、新しくなることはない声。だんだんと古びて、壊れたラジオのようになってしまうのだろうか、と彼は思った。そして、最後の言葉も。

彼はイヤホンで音楽を聴き、耳栓をした。ただ音が鳴っているだけだった。そこから聞こえる叫びにはなんの意味もなかった。

そんな彼を、夜は黙って見つめていた。夜は誰にだって平等に訪れる。触れないように優しく包み、人々を返すべきところに返す。そして静かに夜は去っていくのだ。

彼は窓の向こうの夜を見た。暗闇がカーテン越しに部屋に差し込み、彼を照らしていた。それは部屋を漂う影よりも暗かった。暗いというよりも、無という感じが彼にはした。窓の外から誰かが手を招く。彼はそんな気分になり、立ち上がった。腰のあたりに置かれたウォークマンが滑って床に落ち、イヤホンが耳から外れた。彼はそれを無視して重い窓を開けた。

すうっと、夜は流れてきた。葉が紅く染まる季節、冷気に包まれて夜は部屋に広がる。彼は形を失くし溶けだす。自分の身体が無に飲み込まれて、消えてしまったような気がした。恐怖だけが固まって、胸のあたりにくっついていた。しかしほどなくして、彼らも霧のようにいなくなった。夜が囁き生まれた風、連れ去られた。

形のない彼に重なるように、彼女の姿が鮮明に浮かぶ。笑っている。何かを言おうとしている。でも彼にはうまく聞こえない。もう一度言って、と彼は呼びかける。今、聞かなければ。彼女が笑っているのだから。彼は夜に包まれて、涙を流した。静かに泣いた。彼は一人になって初めて泣いた。

そのまま彼は急いで机に向き合い、課題の山を押しのける。そしてノートとペンを取り出した。暗闇の中、必死でことばを書いた。彼女との長い思い出を映すことば。涙が落ちた紙の上、黒く並べていった。何も見えない。頭の中の彼女の声を聞くために、それでも彼はことばを書いた。彼女が好きだった。

夜は彼女との日々のように長い。それでも、終わりがやって来た。

少しずつ薄くなっていく暗闇とともに、彼女は窓の向こうへ消えていった。朝日が遠くで火のように揺れていた。彼はペンを落としたような姿勢のまま、静かに寝息を立てていた。

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