【感想】大人の読書感想文【空飛ぶ馬】
・著書 空飛ぶ馬
著者 北村薫 出版 東京創元社
どの一遍もごく日常的な観察の中から、不可解な謎が見出される。本格推理小説が謎と論理の小説であるとするなら、殺人やことさらな事件が起こらなくとも、立派に作品は書ける。勿論、これは凡百の手の容易になし得るものではないが。北村氏の作品は読後に爽やかな印象が残り、はなはだ快い。それは、主人公の女子大生や円紫師匠の、人を見る目の暖かさによるものだろう。鮎川哲也
・感想
時々、子供の頃を想起させることがあります。特に、自分よりも歳が一つ二つしか違わないのに、自分よりもしっかりしている、もしくは、自分よりも歳が一つ二つ下なのに、礼儀正しい人を見ていると、過去の自分に罪悪感が沸くのです。
中学生だった当時、教育実習生が立派な大人に見えました。今に思えば、まだ初々しさが残る、どこにでもいる大学生だったはずの彼ら彼女らを、僕は担任や両親と同等の存在として認識していたのです。
高校でもその感覚がくすむことはなく、これが大学生か、これが大人かと、心から恐怖しました。
そして晴れて僕も大学生となり、大人に半歩近づいたのだと高揚したのもつかの間、ふと自分を俯瞰して見た時、果たして中学生、高校生だった自分が、今の僕を大人だと思ってくれるのか? という疑問が沸きました。
確かに変わった──中学の頃より身長は伸び、声変りもし、趣味も増え、髪や髭だって伸ばした。バイトも始め、サークルにも入り、おしゃれだってするようになった。
でも、成長って、大人って、こういうことなのか? そんな簡単になれるものなのか?
だから、頑張った──バイト中の接客も、サークルでの人付き合いも、アパレル定員に対する受け答えも、全部やった。
そうして出来上がったのが、多少の清潔感を身にまとった、人当たりの良い──子供でした。
誰しも将来に不安を感じます。正しい道なんて無く、綱渡りの連続。
そして、『私』もその一人です。
僕と『私』に違いがあるとすれば、不安や疑問、疑念に真摯に向き合ってくれる師匠がいたかどうか、ただ一つ。
『空飛ぶ馬』──<円紫さんと私>シリーズ一作目。
北村薫さんの処女作であり代表作でもあるこの作品。北村さんを知るきっかけは、僕が敬愛してやまない米澤穂信さんが、シリーズ六作目『太宰治の辞書』の帯及び解説を担当していることを知ったからです。
大学生である『私』と、落語家である円紫さん。どんな線で結んでも接点などなかったはずのこの二人が、数奇な邂逅を機に、切っても切れない関係へと変わりました。
大学教授の不思議な体験から始まる今作品。円紫さんの類まれなる洞察力によって、疑問が解消されていくわけですが、円紫さん自身が行動を起こすのではなく、あくまでも話を聞く。そこから推論を導き出す姿は正に──安楽椅子探偵のそれでした。
そして、僕が今まで読んできたミステリにはない要素として、円紫さんが落語家であることが挙げられます。
落語と聞いて真っ先に思い付いたのが、日曜日の十七時半から放送されている笑点でした。
はい……。言いたいことはわかります。それは落語じゃなくて、大喜利だろ、と。
ですが、ホラーとミステリの区別がつかない人もいるように、落語と聞いて笑点を連想させる人も往々にしていると、僕は声を小に言います。
話を戻しますと、落語家の描写、そして章ごとにいくつかの噺がピックアップされており、文章で読んだだけでも引き込まれるほどに、落語の奥深さを感じました。
もちろん、落語の奥深さを感じたからといって、深遠まで理解できたとは思っていません。北村さんの描写が如何に素晴らしくとも、文章で落語の魅力を伝えるのには限度があります。
読む物語が──小説。
聞く物語が──オーディオブック
見る物語が──落語
なので、落語を何席か視聴いたしました。本来であれば舞台に足を運ぶべきなのでしょうが、如何せん他人にも自分にも不実な僕は、一番楽な方法をとりました。
YouTube──便利な世の中になりましたね。
拝見後の感想は、月並みにはなってしまいますが「面白かった」の一言に尽きます。
むしろ言葉を重ねれば重ねるほど、自分の矮小さが際立つように思えます。
そして、『私』の抱く屈託も、言葉の多さにのまれているだけなのかもしれません。
『私』もいつか大人になり、学生時代を追想することでしょう。楽しかった日々を、アルバムをめくるように、ペラペラと懐かしむ。
大学を卒業し、大人に感じていた教育実習生たちよりも歳を重ねた僕を見て、中学生の自分は何と声をかけるのか。
まぁ、大体こんなところでしょう──「お前に卑下は似合わない」
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