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【現代語訳】泉鏡太郎『人魚の祠』

「いまの、あのママさんが抱っこしてた赤ちゃん、ワンチャン鯉とかスッポンてこともあるかもですけどね」

「…………」

 僕は黙って工学くんの顔をガチ見した。

「ないだろうとは思いますけど」

 赤坂見附に近い、とあるカフェの入口近いテーブルで、工学くんはビールグラスを前に言った。
僕はタバコに火を点けながら、

「別にいっすよ。僕はそいつが石地蔵で、今のが姑護鳥でもオッケーっす。でもそれだと、あなたが世間に顔向けできないっしょ?」

6月の終わり頃。都内の渋谷らへんでとあるティーパーティがあり、工学くんが参戦するからと誘われて、ある日出掛けて行った。
参加者は女子ばっかで、しかも顔面偏差値高めだったので、ようかんとかいちご、高級な紫のティータオルを使った薄茶のサービスまであったが――我慢しろ――酒なんかは全然ない。けどまあそれは承知の上だ。だからって意地汚く、帰りにこんなところに寄り道したわけじゃない。
ほんとだったらそのパーティで、工学くんが話したスピーチの内容を、ここにまとめておいた方が、読む人には役立つかもしれんが、ちょっとそれは勘弁して欲しい。

ぶっちゃけ、行く時も一緒だった。
目指す方へ、レンガ塀や板塀の続く細い道を通って行くと、やがてパーティが開催される家の生垣で、そこで三つの仕切りが三方向に分かれて三つ辻になる、曲がり角の窪地で、日陰のぬかるみのところが――空は曇っていた――残り雪かと思うような、散った花びらで真っ白だった。
花の下で学士くんのスーツが明るく見えるくらい、空を背に花盛りだ。
枝も梢もみっしりで、仰向いて見上げると屋根より高く伸びた木が、セットになって二本あった。
スモモの季節じゃないし、ウツギでもない。そして、モクセイみたいな甘い匂いが、燻したみたいに香る。
楕円形の葉は、羽状複葉っていう羽っぽいのが青々として上から可愛い花をハラハラ包んで、その様子はサギが緑のヴェールを被ってたたずんだまま羽をさっと開いて、両方から翼を交差した、仲のいいカップルみたいな感じだ。
僕はもちろん、学士くんにも、この香木の名前は分からなかった。

この日、パーティ会場でも聞き回ったが、その場にいた女性陣も誰も知らない。
そのくせ、いい香りのする花だー!とか言って、ちっちゃい枝をコップに挿していた子がいた。
九州のサルがいたずらしそうなくらい、裾が見えるような姿勢で伸びあがっても、下の方の枝にも届かなさそう。
小鳥が突っついて落としたやつを、来る途中に拾って来たんだろう。

「オッパイみたぁい」

一人の女の子が言った。
なるほど、近くで見ると、白い小さな花がうっすら色がついてるのがひとつひとつ、可愛い乳首みたいな形に見えた。

さて、日が暮れて、その帰り道のことだ。
僕らは七丁目の終点から乗って、赤坂の方へ帰ってきた。
あの区間の電車は大して混み合うはずじゃないのに、空模様が怪しく雨雲が低く垂れこめて、今にも一雨きそうだったので、人通りが慌ただしく、一駅とか二駅とか、近所に行くだけの用事にも使う人が多かったのか、停留所ごとの乗る人の数がやたらいた。

で、いつどこから乗り込んできたのかは知らんけど、ちょうど僕らの並んで腰かけた向こう側――墓地とは反対――のところに、23、4歳の色の白い女がいる。

とりま、色の白い女と言っとこう。が、雪みたいな冷たい白さではない。
ほんのり桜色の影がさす、ふんわりとした香りの匂う格好である。
……こういうのは、肌っていうより、やらしいけど肉って言おう。
その胸は、合歓の花が零れ落ちそうな感じでチラ見せの状態である。
藍地に紺の立て絞りの浴衣一枚を、糸くずほどの紅色も見せないで素肌に着ている。
襟に沿ってふっくらとした胸のラインが見え、服は青い。青々としているのが葉に見えて、さっきの白い花を思い出した。

撫で肩をだるそうに落として、すらりと長い膝の上に、やんわりと重みを持たせた、しなやかな二の腕で赤ちゃんを抱いている。仰向けに寝た顔に、白い帽子がかぶせてある。寝顔にライトが眩しいと嫌がったんだろう。
赤ちゃんの顔は見えなかった。それが気になると言えば気になるところで、工学くんが――鯉かスッポンか、と言ったのはこのことだ。

この色っぽい胸の持ち主は、顔もめちゃくちゃいけてた。鼻筋が象牙彫りみたいにつんとしてるところが難を言えば強すぎるけど、その代わり目はうっとりして、物思いにふけっているみたいに仰向いた、小さい顔が引き締まって、口元もだけど品があってしかも迫力ある。
その顔立ちが帯よりも、きりっと細い腰を締めていた。顔でガードしたような感じだ。白い歯を見せてにこっと笑ったら、ガードがはらりと解けて、帯も浴衣もそのまま消えて、肌の白い色がぱあっと色めいて咲くんじゃないかな。
霞は花を包むとか言うけど、この女は花が霞を包むってことだ。
肌が布を消すような感じで、浴衣の青にも、胸襟のほんのりとした色が染まることはない。
しかも湯上りかってくらいほかほかして、髪もツヤッツヤだし滴るくらいに濡れた感じで、それが煽られてガラス窓から入る風の為に額に絡まる。汗ばんでさえいたっぽい。
開いた窓に横向きになって、ほつれ毛を白い指で掻き上げると、あの花の香りが強く薫った。
あれっと思ったらツヤッツヤの黒髪に、同じ白い花の小枝を、生き生きとした萼やぴんと立った蕊をゆらゆらさせて、横髪に挿してたんだった。

そんな風に見ている時、工学くんの手が、ぎゅっと僕の手を握った。

「降りましょ。ちょっと話があるんで」

立って見送ると、女を乗せた電車は、見附の谷の窪んだ広場へすーっと降りてゆき、一度暗い中を停まったが、たちまち風に乗ったように地面から上の方へさっと坂を上って、青い火花が桜の並木にスパークしながら、暗がりの梢の向こうに消えた。
小雨がしとしと、街を濡らしてる。
そこで、コーヒー店に一緒に入ったってわけ。
ここでちょっと断っておこう。工学くんは昔は苦学生で、その当時は、近県に薬売りのセールスに回っていたのだ。

2.

「利根川の流れが氾濫して、田んぼや畑や村里に、その水が残って、何か月とか何年とか過ぎても涸れないで、そのまま溜池になったところがあるっす。
小さいのは、コウホネのぽつぽつ黄色に咲いた花の中を、ガキンチョがいたずらして猫を乗せて盥を漕いでる。
大きいのは、汀で葦を積んだ船が、棹をさして波を分けて進んでる。
千葉、埼玉と、あのでかい河のほとりを旅する観光客は、時々、いや毎日ひとつふたつはちょいちょいこの溜池に突き当たります。
これを利根の忘れ沼とか、忘れ水っていいます。
中には、あの流れを敷地内に引いて、用水ごと庭の池にして、筑波山のお膝元だってドヤってる、羽振りのいい農家なんかもあります。

今から話す……ボクが出くわしたのは、どうも庭に作った大池だったらしい。といっても、周りには柱の跡なんかの残骸も見当たりません。まあそんなやつは埋まっちゃったのかもしれないけど。
そこら中に草が茂って、荒野っていう感じの場所で、なんで一度は人様の家の庭だったって思ったかと言うと、その沼の真ん中にDIYで作ったみたいな小島が一つあったからっす。
で、この沼は、話を聞いてイメージするほど大きいものではないんです。かといって向こう岸に向かって声が届くほどちっちゃくもない。
それじゃむっちゃ広いのか、というとそんなでもなくて、14、5分も歩いたら、簡単に一回りできそうなんです。
ただし14、5分で一回りっていって、すぐに想像するほど、狭いってわけでもないんです。
こういうと、その沼って伸びたり縮んだり、ちっちゃくなったりおっきくなったり、動いてるんじゃね?って思うでしょ?ですよね?
いいっすよ、そう思って聞いてください。

水って、一滴の中にも河童が一匹棲みついてる国があるってくらい、訳わかんなくないすか?
それも底が澄んで少し白っぽく、トロットロでしかも岸とすれすれに、水が溢れそうになってる古い沼ですもんね。
ちょうどその日の天気は、雲と同じでどんよりとして、雲の動く方へ一緒に動いて、時々てらてらと空に薄日がさすと、その光を受けてキラキラ光ってる感じが、沼の表面に目があって、薄目を開けてこっちにガン飛ばしてるみたいでした。
これじゃあその沼が不気味みたいだけど、ちょっとの間のことで――16時から17時くらいの間?――暑い日だったし、めっちゃ疲れて、汀でぐったりして一息ついているうちに、雲がまったり流れて、薄いけど平らに太陽を包むと、沼の水は静かになって、そんで少し薄暗い影がよぎりました。
風はぜんぜんない。でも、濡れていないのに袖がなんとなくひやっとするんですわ。

とにかく雰囲気あって、汀にはところどころ、丈の低いかきつばたが、紫の花に混ざって、あちこちに一輪ずつ、申し合わせたように、白い花が混じって咲いてて。
あの小島は、群がった卯の花で雪を被ったみたいになってるんです。
岸に、葉と花の影の映るところは、松葉が流れるみたいに、ちらちらと水が揺れてます。
小魚が泳ぐんですかね。

池の幅で一番広い、向こうの汀にこんもりした一本の柳が茂って、その緑色が目立つ感じに、後ろに一かたまりの森がある。
白っぽい雲がたなびいてて、もう一かたまり、一段高く森が見える。
後ろの方は、遠くの里の淡い靄が漂ってる、なだらかな山々なんすよ。
柳の奥に葉を掛けて、ちっちゃいよしず張りの茶店が見えて、横は街道、すぐに田んぼで、田んぼのへりの流れにも、ちょこちょこかきつばたが咲いています。
こっちは薄青い、眉毛みたいな山が遠く見えて。

そしたら、沼がハアハア息してるみたいに、柳の根から森の下の方、紫の花の上にかけて、霞みたいな夕もやがそのへん一面に白く流れてくると、同じような雲が空から降りてきて、汀の方は濃く、梢の方は淡く、中の方の枝を透かしてなびきました。
ボクのいた草のとこにも、しっとりとそのもやが流れてきたけど、袖にはかかんないし、肩にも巻きつかなくて、目なんかは水晶を通してみるみたいに透明で。
要は、上下が白く曇って、150㎝から180㎝くらいの水の上は、かえって透き通ってる感じ?

お、あの柳に、きれいな虹がかかってんじゃん!って見ると、薄もやが分かれて三つに切れて、友禅の着物に鹿の子絞りの菖蒲模様の帯揚げを巻いた、派手で涼しげな格好の女が3人キター。
白い手がチラチラ動いたと思ったら、鉛の重りをつけた糸が三筋、三ケ所に棹が振られたんだ。
(ああ、鯉がいるんだ……)
30㎝もあるやつが、金の鱗をギラギラさせて、水の上にピョンピョン飛んでさあ」

3.

「それよりすげえのは、釣竿を上げ下げする度にもつれる袂やひるがえる袖が、まるでカワセミが6羽、12の翼を翻す感じなんです。
その白い手も見えるし、にっこり笑う顔が俯いたり仰向いたり、手と手をつないだり、笑う時に一人の肩をどついたり、蕾がひらひら開くように動きまわってるのに、厚いガラス窓を隔てたみたいに、ぜんっぜん声聞こえんし、まわりはひっそりして、物音ひとつ聞こえない。
向かって左の端にいた、一番小柄な子が下ろしている棹が満月みたいにしなった、と思うと張り詰めた糸が上の方にピンと伸びて、シュルッと水みたいな空に鯉が跳ねて――」

――理学くんは言いかけて、僕の顔を見て、それから辺りを見回した。こういう店の出入り口付近は、奥や二階に比べて人はまばらだった。

「鯉は鯉だろ、って思うでしょ。でも、あの森を背に宙に跳ね上がったのは、真珠みたいに真っ白な、白いふくらはぎを見せたお人形みたいにちっちゃい色白の女の子だったんです。
釣られたわけじゃなくてね、釣り針を両手で抱いているんですよ。
見てたら、釣り上げた美人が釣竿をぶん投げて、柳の根っこのもやが流れてるところに倒れたと思うと、起き上がって三人ともボールみたいに秒で逃げちゃいました。
だけど逃げる時に、そのもやを踏むんです。鈍くって沈み込む、崩れていく綿の上を踏んで歩いて行くみたいに、着物の下の方が縺れたり、裾が乱れてるのがしばらく見えてました。
その後から、茶店のマダムが手を振り回しながら、やっぱ走ってる。

実際あの辺には、自動車とかに乗って、美人が一日がかりに行けるホテルとか温泉なんかがあるのかどうか。その後まだ行ってみてません。そういうのがあれば分かるけど、にしたって近所のホテルに来てたのか、この沼に来て釣りをしたのか、それとも、どこかの地方、どこかの街のなんとかいう池で釣ったものが、蜃気楼みたいな仕組みでここに映ったのかも知れません。
あまりにも静かで、しんとした様子なのが、夢ってかよりその海の街に似てました。
沼の色は、ちょっと青っぽくなってきた。
けどその茶店のマダムは普通の人間です。だってボクが通りがかりに沼のふちにある祠を指して『あれは何の神様の社でしょう?』て聞いたら『賽の神様だよ』って教えてくれたんです。
今、その祠は沼に向かって草が茂っている後ろ、芝草が盛り上がった小さな森の前にある。
鳥居が一つ、そのそばには大きな棕櫚の樹が五株ずらっと並んでる。
これも廃屋みたいで、盛り上がってるのはでかい築山だったかも知れない。

ま、そういっても一円ぽっちの金払ってお茶する余裕もなかったボクだけど、……そうやって薬のセールスで歩き回る頃は、もう死んじゃってた両親の供養になるだろうか、と、感心にも道々お寺や神社、祠のあるところには、持ってる薬の中から何かしら一つはお供えしました。
お祈りする人が、神様仏様から授かったのだと思ったら、プラシーボ効果で病気治るんじゃないかと自分に酔っちゃってたんです。

ちょうど、ボクのいた沼のふちのところに小舟がありました。
朽木みたいになって沼に沈んで、裂け目にかきつばたの影が、底には雲の影が流れるのが見えてました。
それを後に、お堂の方に歩いて行きました。
早く話せって?
わかってますって。

で、格子戸を開けるとですね、こりゃびっくりです。
(こりゃなんだ)
パーテーションとかテントとか言いたいとこだけどちょっと違うかな、スプリンググリーンとブルーのストライプのジャガードかなんか、中国風の絵を織り込んだのがカーテンって感じに柄天井から床まで巡らしてある。こいつに覆われて、内側は見えません。
これがもっと奥の方に掛かってたら、布の内側はご神体とか神棚とかだろうから、ボクも絶対覗かなかったんです。でも、お堂の中で、むしろ格子の方に掛かってました。
なにげに端を持ってシャーって引くと、蜘蛛の巣の代わりに透明なネットみたいに顔にひっついてきたのはバラかスミレかと思ったけど、よく考えたらさっきの花の匂いだった。何とも言えない、甘くてセクシーな香りがふんわり香ってた」

――工学くん、ハンカチで口を覆うと、ちょっと額に手をやった。

「そこは寝室で、ベッドがありました。豪華なダブルベッドで、光沢のあるツルツルのシルクかなんかのペールピンクのシーツを敷き詰めてあって、ちょっとボロく見えたのは空が曇ってたからかも知れない。
同じ色のタオルケットを掛けてたから、シュッとした寝姿が少しふっくらして見えるくらい。
肌を覆うほどじゃないけど、美しい女の顔がつやつやの黒髪を、同じくシルクの枕に着けて、こちら向きにちょっと仰向けになって寝てます。
なんだけど、それが黒目がちな両目をぱっちり開けてて……咄嗟に、怖っ、この目にここで殺されるのか?と思ってこっちもじっと見つめました。
少し高すぎるくらい鼻筋がすっと通って、彫刻か粘土細工か、眉、口元、はっきりした輪郭、何よりさくら色のあの顔色が、今さっき会ったあの電車の女に瓜二つってとこ。
そこで毛ひとすじでも動いたら、その枕や布団、タオルケットのペールピンクとおんなじような蕾みたいな顔の女は、めっちゃいい匂いを発しながら、オッパイからめしべが伸びて、乱れ咲くんじゃないかなって思えたんだ」

4.

「ボクの目がおかしくなったのか、女はまばたきをしません。ほんのちょっとの間、息を詰めてみている間ですが。
で、あんまり整った顔立ちだし、たぶんこれは白い彫刻に色を塗ったもので、なんか訳あってここのお堂の本尊なんだろうって思ったんです。
床の下、板張りの裏側で、ガサガサ音がし出した。あっちこっちネズミがものを引きずってるのか、床に響く音が、上に立ってるボクの足の裏をくすぐるみたいになって、むずむずしてしょうがないのでわさわさ体をゆすりました。
本尊は、まだまばたきしない。
そのうちに右の音が、壁にへばりつくか這い上がったっぽい。
ベッドの足の片隅に、板の破れたところがある。その隙間に、イタチがちょこんと覗くみたいに、茶色いぺちゃっとした顔を出して、モゾモガサガサちょっとずつ顔を出して、バサバサ出てくるやつがある。
大きさは米俵の蓋くらいで、形も似ている。毛だらけの塊で、足も顔もない。そっか、ネズミでも中に潜ってるんだろう。
そいつが、ガサガサとベッドの下に入って、床の上をズルズルと引き摺った、そしたら女がタオルケットから出した腕をボクのいる方へ投げ出しました。
寝巻きが乱れてオッパイも見える。それを片手で隠したけど、足のあたりを震わせると、ああっ、と言って両手が空を掴み、裾を乱しながら弓なりに体を反らして、タオルケットを蹴っ飛ばし、襖の向こうに転がっていった。
ボクは飛び出した。
段を落ちるように下りた時、黒い格子戸を後ろに、女は斜めに立ったんだけど、ああっ!足元にいつの間にかあの毛むくじゃらのさんだらぼっちがいる!!
白いくるぶしを上げて、階段を滑り下りると、さんだらぼっちは後からコロコロ転がってきて女にくっつく。
その後はヤバかった。まるで人魂が乗り移ったみたいに、毛玉が真っ赤になって、草の中をあっちこっち、細い帯を巻いただけのエロい寝巻の女を追い回す。女は後ずさりして、体を捻るだろ。
さんだらぼっちは裾にまとわりついたり、踵を舐めたり、跳ねたりブルブル震えたりするんだ。
そのうち女は沼の縁に追い詰められた。足の上に這い上がるさんだらぼっちに、わなわな悶える白い足が、あの釣竿を持った三人の手みたいに、ちらちら宙に浮いたが、するりと音がして帯が滑り、着物が脱げて草に落ちたんだ。

『沈んだ船が――』

と思わずボクは声を掛けた。
時すでに遅し、ダブン、とヤな感じの水音が響いた。
それにしても泳ぎのフォームがキレイだ。美しいラインで背筋に沿って水流が左右に分かれるのは、軽い布をひらめかすみたいなんです。
その肌の白さといったら、あの合歓の花をぼかした色を、この時とばかりにアピールしてる感じ。

動きを止めた、赤茶けたさんだらぼっちが、ボクの目の前で、毛筋をざわざわざわつかせながら、惰性でアップアップ喘いでいる。
よくよく見てびびった!
棕櫚の繊維を束ねたものと見た感じ変わらないけど、近寄っていったらパチパチ豆を炒るような音がして、バラバラ飛びついてきた赤茶けたものは、幾千万ともしれない蚤の塊だったんです。
両足がムズムズ、背筋がピチピチ、襟首にピチッと飛んでくる。
ボクは転げ回って体を振り、蚤どもを振り飛ばした。
するとなんと。その棕櫚の繊維の、蚤の巣のところに、頭が小さくて、目尻と頬の垂れ下がった、ゴミ袋みたいなキモいデブの50歳くらいのあごひげを生やした男が立ってやがる。
何者なのか、越中ふんどしってやつ一丁で、真っ裸で汚い尻だ。

女は沼の小島に泳ぎ着いて、卯の花の茂みに隠れました。
でもその姿が水に流れて、柳を緑の鏡にしてぽっと映ったみたいに、人の影らしいものが、水の向こうに、岸の柳の根元にシルエットになって立っている。
ていうかこのゴミ袋と同じような男が、そこにも出てきて、白い女を見ているのかも知れません。
ボクもその一人でしょうね。

『おいっ、待て』

デブ野郎が、痰の絡んだ汚ねえ声をして、ばっくれようとしたボクを引き留めた。

『見てもらいたいものがあるんだ、もうちょっとだ』

と、顎で示してえらそうに言う。
なんと、その両足から下腹にかけて、棕櫚の繊維の蚤が、うようよぞろぞろ、赤蟻みたいに列を作ってる。ボクは立ちすくみましたね。

ひらひらと夕空の雲を泳ぐみたいに、柳の根元から舞い上がったのはゴイサギでした。
小島の上に舞い上がったかと思うと、輪をえがいてそれから急降下した。

『ひい』

と引きつった女の声。
サギは舞い上がりました。翼が巻き起こす風に、卯の花がさわさわとしなる様子は、女が手足をバタバタさせて、もがいているみたいです。
今考えると、それはやっぱりさっきの樹だったかもしれません。
同じ香りが風のように吹き乱れた花の中に、雪のように白い姿がすっくと立った。
滑らかな胸がつんと突き出たオッパイの下に、点々と血みたいに見える真っ赤な雫。
柳の枝を乱して、卯の花が真っ赤に散ると、その薄紅色の波の中に、白い体が真っ逆さまに沼に沈んだ。
汀の広範囲に静かな波紋が広がり、血の筋が絡まりあって影を落としながら漂い流れる……

『あれを見ろ。血文字じゃねえか。なんて読める?』

――ボクは息を切らせて頭を振ると、

『分かんねえのか、バカめ』

と、ドンと胸を突いて、突き倒す。やたらバカ力だ。

『またやり直しかあ』

と呟きながら、蚤の巣をぶら下げると、ボクが呆然としているのを尻目に、のそのそと越中ふんどしの灸のあとのある尻を向けて去っていった。
やがておずおずと祠の格子を覗くのが見えた。

『奥さあん、奥さあん――蚤が、蚤が――』

と腹をブルブル身悶えしながら、後ずさって、どしんと尻餅をついた。
そんで頭に棕櫚の毛をズボリと被る、と梟が化けたような姿になって、そのままぺたぺたと草の上を這って、縁の下に入り込んだ。
こうもり傘を杖にして、ボクがよろよろとその場を立ち去る時、沼は暗かった。そして生ぬるい雨が降り出した……。

『奥さん、奥さん』って言ってたけど、そのゴミ袋の奥さんなんだって。
土地の羽振りのいい農家の何とかいう奴が、没落華族のお嬢さんを金に明かせて娶ったんだそうです。
御殿みたいに心尽くしで迎えたけど、そのお姫様は蚤恐怖症ってくらいで、一匹出ただけで夜も昼も悲鳴を上げる。
しょうがないので別に寝室を作って防いだけど、防ぎきれない。
それで旦那さんが、蚤を避けるために蚤の巣になって、棕櫚の繊維を全身に纏って、素っ裸で寝室の縁の下に潜ってたら、ひと夏の間に狂い死んだとか。

『まだ迷ってらっしゃるんですねえ、二人とも――旅行客が、あの沼で同じような目に度々遭うんです』

旅館ではそう聞きました」

工学くんは付け足して、

「……祠のその縁の下を見ちゃったんすよ……何だと思います?……奇妙な形の石がね」

後で工学くんから連絡が来たが、あれは乳香の樹だろう、とのことだった。

原文:泉鏡太郎『人魚の祠』
※画像は高円寺エセルの中庭


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