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『ばらばら』 星野源

世界はひとつじゃない
あぁそのまま ばらばらのまま
世界は ひとつになれない
そのまま どこかにいこう
気が合うと 見せかけて
重なりあっているだけ
本物はあなた わたしは偽物
世界はひとつじゃない
あぁもとより ばらばらのまま
ぼくらは ひとつになれない
そのまま どこかにいこう
飯を食い 糞をして
きれいごとも言うよ
ぼくの中の世界 あなたの世界
あの世界とこの世界
重なりあったところに
たったひとつのものがあるんだ
世界はひとつじゃない
あぁそのまま 重なりあって
ぼくらは ひとつになれない
そのまま どこかにいこう



 人間はとても複雑にできている。それは生物学的で唯物的な意味ではなく、その人の内面の構成を指している。
 自分のことをどのくらい理解できているか、というのは哲学的に至上命題とされており、一生をかけても読みきれないような自己啓発本で溢れている。
 僕はどのような人間なのだろうか。奥手でもあるし積極的でもある。穏やかである一方情熱的にもなる。丁寧且つ煩雑で、個人的且つ社会的。
 そう、よくわからないのだ。自分の備える語彙で正確に表現することができないというだけではなく、自分自身が即時的に変化し続けているから、わからない。そのときどきの状況、体調、もしくは天気なんかで「自分」はコロコロとその色と輪郭を変えてしまう。
 その反面、「自分」の一部には常時的なものもある。履歴書に書くような社会的足跡や「自分」の根幹の一部である確固たる哲学などがそうである(絶対的な哲学も誰かの演説や著書に影響されることもあるだろうが)。
 そしてこれら、「可変的自分」と「不変的自分」は相互的にその実態に作用しながらも対等には扱われていない。
 「不変的自分」よりも「可変的自分」のほうが圧倒的に多くの場面で外向け、つまり、展示用として人前に置かれる。
 人間は誰しもいくつかの顔を持っている。会社での顔、電車に乗っている時の顔、親友に向ける顔、家族には見せられない顔、恋人といるとでてしまう顔。
 誰と話しても変わらない人、と思われる人が時たまいるが、彼ら(彼女ら)だって本当にいつも同じ顔でいられるはずがない。社会というものは他人同士の協力によって成り立つ、ある意味では不安定極まりないものである。そんなアンバランスなジェンガの上で好き勝手できるはずがない。彼ら(彼女ら)は単一の顔で乗り切れる場面とそうでない場面の"ライン"を分かっているだけなのだ。
 そしてその、顔の使い分けという行為は全く持って悪ではない。むしろこれを怠ることこそ悪として捉えられる。我々は必要に応じて顔を付け替えるし、これが本来的に求められている。そして、「不可変的自分」をそっくりそのまま晒すことは非常に難しい行為である。なぜなら、人間は社会的な生き物だから、恥と躊躇いがどうしてもその展示物にガラスの箱を被せてしまう。
 「不可変的自分」を他人に見せることがどれほど恐ろしいのか、それは全身の皮膚を剥いで砂漠を歩くようなものだ。日の光がジリジリと筋肉を炙り、風に乗って飛ばされた砂粒は手で払っても取ることのできない不快感として粘着する。
 それでも、あえて、僕はあえて、ありのままの「不可変的自分」をそっと両手に載せて、君にゆっくりと差し出したいと思っている。生々しくも脆くて繊細な僕の内面は、僕の奥から取り出した高純度体ではいられないだろう。どうしたって「可変的自分」をオブラートとして装ってしまうだろう。それでも、君に差し出す際にはできる限り集中してそのオブラートをピンセットで取り除いた、限りなく本当の生々しさを保っていたい。
 君の手についたアルコール消毒や垢なんかで気触れてしまうかもしれない。それでも時間をかけて外来的な君の成分が少しずつ僕の一部になったなら、どれほど君と過ごしやすく穏やかな気持ちになるだろうか。