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『nothing』 星野源

夜を看取った 空に種火が
まだ 街角は眠ったまま 静かに
布で包んだ 君の寝息が
ただ 霧の様な灯りで 部屋照らした

変わらぬ愛を知って
瞳輝き増して
時間よ止まれよ
君を誇る事で
私は生きているって
呆れた本当さ
なにもないな

街は怒りと 夢を注いだ
ああ うんざりだ僕らは ただの器だ
布に籠もった 残り香 君の吐息が
何も 持つ事のできない手を 握った

止まない愛を知って
世界色づき出して
命よ続けよ
いつも気付いていた
君に渡せるものが
馬鹿げた僕には
なにもないな

変わらぬ愛を知って
瞳輝き増して
時間よ止まれよ
君を誇る事で
私は生きているって
呆れた本当さ
ああ なにもないな



 死んだ。たった今、夜が死んだ。それは至って穏やかな臨終だった。具体的に、いつ死んだのか。いつまでが夜で、いつからが朝なのか、明確な境界は存在しない。見えない線を引いて県境を定めることとはまるで違う。
 夜が退いた場所には太陽が居座っている。今は控えめだが、数時間後には万物を照らさんと意気込んで膨大なエネルギーを充填しているようにも見える。
 宵闇で満たされていた部屋が徐々に明るくなり、淡白い新鮮な空気で溢れている。
 目の前の毛布が呼吸に合わせて膨らんだり萎んだりしている。果たして、わずかな上下動を繰り返すこの輪郭は、君なのだろうか。いや、厳密には違う。まず、薄茶色の物体は毛布だ。そしてその下に赤いGAPのトレーナーがあって、水色の下着があって、その先にある素肌が君の境界だ。こんなことを真顔で言うのは甚だ馬鹿らしいだろうか。
 もし、君の水色の下着を触りながら
 ―実は、この布切れは君じゃないんだ
なんて言っても
 ―知らないよ、そんなこと
と半笑いで言うだろう。
 それでもきっと、僕は話し続ける。昼下がりのワイドショーで殺人の被疑者の責任能力について語る中年タレントのように。
 ―本来的には物事の境界は曖昧なんだ。言葉を洗練化した人間が一つ一つの物事に輪郭を与えたに過ぎない
 そしたら君はこう言うだろう。
 ―山梨県とか、タジキスタンとか
 ―そう、山梨県とか、タジキスタンとか。それだけじゃない、ペットボトルもそうだ。もしペットボトルがその名称や輪郭を持たなかったら、きっと僕らには見えないもののはずなんだ。そこに転がっていて、あるにはあるんだけど、ないんだ。ないのと同じ
 そしたら君はこう言うだろう。
 ―そうかもしれないね、よくわからないけど
 僕は別の質問をするだろう。
 ―どこからが僕で、どこまでが僕なのだろうか
 君はこう言うだろう。
 ―そうね、正確に知りたいならパンツを脱いで、もう一度裸になってみたらいいんじゃないかな
 ―確かに、それが一番いい方法だろうね。でもそれはあくまで表面的な僕でしかない
 君は僕に触れて言うだろう。
 ―腕と脚が毛深くて、背中にシミがある
 本当に僕の背中にシミがあるかどうかは知らない。
 ―そう、四肢の毛が少し多くて、綺麗な背中ではない
 ―でも好きよ、人間らしい背中で
 ―ありがとう
 君を起こして尋ねてみたくなった。僕の背中にはシミがあるのだろうか。でも、それは後で君が起きてからにしよう。今はまだ全身を優しく包む寝息に浸っていたかった。
 次第に外が騒がしくなってきた。街が動き始めた。
 街は情報で溢れている。人々の服装は季節と流行を、広告はモノの価値を、株価は経済を、エンターテイメントは夢を、事件やゴシップは怒りを僕に注ぎこむ。夢や希望も、怒りや絶望も、小さな部屋で君と抱き合うことだけしていれば僕の内側には存在しないのだろうか。
 街は様々な感情を僕という器にトクトクと注ぐ。それは時間が経てば腐って、ゆっくり蒸発して、そうして空になった器にはまた別の感情が足されてゆく。
 外来的な感情の循環が僕の内面を掻き回してくることに、すっかり疲れてしまった。
 ―どこからが僕で、どこまでが僕なのだろうか
 きっと抽象的すぎると怒られて、こう言われるだろう。
 ―つまり、何が言いたいの
 うん、いかにも君が言いそうだ。 
 ―つまり、僕たちは恋人なのだろうか
 君はどう言うだろうか。
 「つまり、僕たちは恋人なのだろうか」 
 現実で発せられた質問は、石が投げ込まれた池の水面のように部屋に広がり、四隅に溶けていった。波紋が消えた後には、微かに震える寝息が規則的に柔らかく響いている。
 ―僕たちは恋人なのだろうか
 君は言うだろう。
 ―どうだろう。でも、友達に『彼氏です』って紹介はしないかも
 ―じゃあ、友達
 ―んん、それも違う気がするなぁ
 ―じゃあ、パートナー
 ―・・・かもね
 適切な言葉が見当たらない。僕らの関係はぼんやりとしている。肝心な時に言葉は役に立たない。
 ―本当にそれが聞きたいこと?
 君は言うだろう。確かに、もっと端的に言い換えることはできるだろうか。
 ―僕は本当にいるのかな
 また抽象的な質問になってしまった。君はこう言うだろう。
 ―デカルトだっけ『我思う故に我あり』って
 ―そうだよ、デカルト。
 ―あれってよくわからないんだよね。なんか大切なことを一言で表しているのはわかるんだけど、抽象的すぎて
 ―そう、抽象的すぎる。ペットボトルの輪郭はくっきりとさせる一方で、僕の境界や君との関係みたいな大切なことは曖昧なんだ
 ―曖昧だけど、大丈夫だよ
 ―・・・どうして大丈夫なのかな
 ―だって私はここにいるから。関係がはっきりと形容できなくても君の輪郭がぼやけていても、私がいることは、君の存在証明にはならない?
 口に出して言ってみる
 「君を想う故に我あり」
 「さっきから何言ってんの、きもいよ」
 毛布の奥から声がする。まるで毛布が話しているようだ。
 「おはよう」
 「おはよう、何、なんか朝からきもいよ」
 「なんでもない」
 鳥の鳴き声、車のクラクション。すっかり朝になっている。
 「そうだ君に聞きたいことがあった」
 「何?」
 「僕の背中にシミはあるだろうか」