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『春と私の小さな宇宙』 その54

※ジャンル別不能の不思議な物語です。少し暗め。
※一人称と神視点が交互に切り替わります。
以上が大丈夫な方だけ閲読ください。
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校門前にバスが止まる。 夜の大学は静まり返っていた。人気は無く、コンクリートで造られた校舎が囚人を入れ る監獄のように待ち受けていた。意味を持たない噴水を通り抜けて教授室を目指す。普段 とは違い、東側の通路から向かった。歩いていくと駐輪場があり、半ば乗り捨てられた自 転車たちが主人の帰りを静かに待っていた。 分野ごとに各学部の建物が立ち並んでいる。その東側の側面には、非常階段がそれぞれ 設置されていた。それは、生物学部の研究室や教授室があるD棟も例外ではない。 D棟に着いたハルは野外にさらされた非常階段に足を乗せる。滑り止めの突起物の感触 を靴越しに感じた。所どころ錆びていて、茶色い模様が浮かび上がっている。手摺に触る と氷を思わせるほどに冷たかった。 確認を終えたハルは、西側にある入り口に向かい、校舎内の階段から教授室に向かった。 光の概念を失い、無人の空間に生き生きと闇が跋扈している。人がいない校舎は校舎にな りえないのだと、ハルは実感した。 三階まで上り、教授室内に入る。闇が室内に充満していた。照明をつけてバッグを隅に 置く。その中から針金とヘアピンを取り出した。 教授室を出て、となりの準備室の鍵穴に差し込む。鍵は教授である伊藤しか持っていな い為、通常では開けられない。鍵を外して室内に入る。実験道具や器具が所狭しに並べら れ、奥に道具を洗浄する流し台が設置されている。 その横に置いてある青いバケツをハルは手に取った。蛇口をひねって水を入れる。三分 の二ほど溜まったところで水を止めた。 廊下に出て、ハルは非常口の扉を開ける。冷たい空気が肌を刺した。階段を見つめたハ ルは躊躇なく、階段に水をかけた。最後の水やりが完了する。 バケツをしまい、教授室に荷物を取りに戻る。 バッグを手に取った、その時だった。 カツン、カツン。足音が聞こえた。音が反響し、耳のいいハルにはより大きく聞こえる。 誰かが教授室に向かって来ているようだった。 ハルはわずかに迷った。隠れるべきか否か。ハルが取った判断は、待つことだった。す でに足音の主は三階まで来ている。室内の明かりが漏れ、教授室に人がいると思われるの は明確だった。ゆえに下手に隠れるのを止めたのだ。どっちみち、妊娠した身体では隠れ 123 ようがない。 扉が開く。入ってきたのは伊藤だった。ハルを見て目を丸くしている。 「どうしたんだね、ハル君。こんな時間に?」 「すいません。やはり心配になって来てしまいました。教授こそどうされたのですか? 予 定よりだいぶ早いようですが?」 時計は午後十時を刻んでいた。 「なるほど。わしの方は仕事がスムーズに進んでね、早めに帰って来られたのだよ」 「そうでしたか。それはご苦労様です」 誤算だった。宮野ならともかくこんなに早く伊藤が現れるとは思わなかった。ハルは高 鳴る鼓動を鎮めるよう努めた。 「ハル君、気になるのはわかるけど、宮野君の件はわしに任せなさい。こう寒くては身体 に触ってしまうよ」 「……お気遣いありがとうございます。それでは失礼します」 ハルは伊藤の横を通り過ぎた。平静をよそおって帰るハルに突然、伊藤の声がかかる。 「もしやとは思うが、裏切ろうとしていないかい? 随分、早く来ていたのは何か企んで いるからだろう?」 落ち着きつつあった心臓が跳ね上がる。振り向かずとも伊藤が疑いの目線を向けている ことは確かだった。 「まさか、そんなわけがありません。……正直に言えば、逆です。教授が途中 で逃げてしまわないように見張っていたのです」 「逃げる? なぜそう思うのだね?」 「恐縮ですが、教授は狡猾な方ですから、私に罪をなすりつけて逃げるのではと考えてし まいまして……」 思わぬ解答だったのか伊藤は吹き出した。目線が柔らかくなる。 「わっはっはっは。そうかね。それは信用の無いことだ。だが、安心したまえ。宮野君が 邪魔なのはわしも同じなんだ。大船に乗った気でいればいい」 「……了解しました。それではよろしくお願いします」 窮地を切り抜けたハルは部屋を後にする。階段を降り、外に出た。 外はうっすら雪が積もっていた。針を突き刺すような冷気が動き出し、凶悪な風に変貌 する。チラつく雪が黒く沈んだ風景を白く染め上げている。 124 暗くて冷たい、終わりのない世界がただ、広がっていた。



続く…


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書いた人↓

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