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雑貨屋『このは』のお話。その8「特別な一日」

 それは突然のことだった。
私ともみじさんは、いつものように、棚の食器を並び替えていた。
ドアベルがカランカランと鳴った。
私ともみじさんは顔を見合わせる。

ーーもしかして? もしかすると?

 期待と緊張で胸が高鳴る。
「いっ、いらっしゃいませ」
ひっくり返りそうになる声をなんとか抑えて、私は言った。
ドアの向こうからやってきたのは、紺色のブレザー姿の女の子。高校の制服だろうか。電車の中で見かけたことがあるような気がする。彼女は軽く会釈をすると、まっすぐマグカップのある棚へと向かっていった。

初めてのお客さん。
私ともみじさんはカウンターですっかりパニックになっていた。

「里子さん、こういうとき、どんな風に声をかけた方がいいのでしょうか」
「私も接客の仕事をしたことがないので、わからないです。どうすればいいんでしょう? でも、話しかけられるのを嫌がる方もいるようですし……」
「あのー」
「ああ、どうしましょう、私、なんだかとっても恥ずかしくなってきてしまいました」
「大丈夫ですって、もみじさん。私も考えますから。えーと、えーと……」
「あの、すみません!」
「えっ?」

私たちが振り返ると、そこには、女子高生の姿があった。もみじさんはびっくりしすぎて、まんまるの耳が飛び出していた。私は慌てて、もみじさんをカウンターの下に押しやると、女子高生の方に体を向けた。
「すみません、ばたばたしちゃって。何かお探しですか?」
女子高生は少し怪訝そうな表情を浮かべたものの、驚いた様子はなかった。もみじさんのことはバレていないようだ。
「外のポスターに写っているマグカップ、まだありますか?」
「え、あのポスター見てくれたんですか!」
「ええ、まあ」
私は思わず踊りだしたくなった。こんなに早く効果が出るなんて。頑張って作った甲斐があったというものだ。
「少々、お待ち下さい」
私はマグカップの棚を探した。
確かあれは、カラフルなにんじん模様のついた、うさぎさんの……あれ? ない?
でも、彼女が初めてのお客さんなわけだから、売れてしまったということはないはずだけど……。
焦る私。このままでは、初めてのお客さんを逃してしまう。と、そこへ、背後から救いの声が。
「里子さん、里子さん、うさぎさんのマグカップはこっちですよ」
まんまる耳をしまい終えたもみじさんが、カウンターの下から、カップを取り出す。
ああ、そうか。ポスター用に写真を撮った後、棚に戻してなかったんだった。
もみじさんは女子高生にマグカップを手渡した。彼女はカップをまじまじと見つめると、ようやく笑顔を浮かべた。
「これこれ、これが欲しかったの」
私ともみじさんも思わずにっこり。
「いくらですか?」
「えっと、里子さん、これは……」
「2000円です、もみじさん」
「そうですか。でも今日は特別な日なので1000円にしておきますね」
「え、半額にしてくれるの? やったぁ」
「お買い上げありがとうございます。じゃあ、お包みしますね」
 さっきまでの緊張はどこへやら。もみじさんは代金を受け取ると、てきぱきとシロツメクサを敷いた箱にマグカップを納め、女子高生に手渡した。
「ありがとう。また来るね」
女子高生は嬉しそうにリュックに箱をしまうと、お店を出ていった。
「ありがとうございました!」
私ともみじさんは、お辞儀をしたあと、ハイタッチをした。
 
 たった一個のマグカップ。それが私ともみじさんとあの女の子を笑顔にしてくれた。雑貨屋『このは』は、これからもきっと、もっとたくさんの笑顔を連れてきてくれるのではないか。そう信じるようになった忘れられない一日だった。

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