コーヒーおかわり
二杯目のコーヒーを飲もうとしている。だいたいコーヒーみたいなものは一杯飲んだらおしまいだろう。そんなにがぶがぶ何杯もいく飲み物ではない。「コーヒーおかわり」などとはあまり聞いたことがない。でも、二杯目をどうしても飲みたくなった。迷った挙句、やっぱり飲みたいので飲むことにする。
フーフーと冷ましたが、飲まずにまた机に置いた。猫舌なのだ。
コーヒーを飲むくせに、猫舌。何か矛盾のように感じた。矛盾とまではいかなくても、どこか不釣り合いだった。
湯気の立つマグカップの横で、私はペンを走らせていた。日記を書いていたのだ。13時17分。こんな時間に日記を書くというのもおかしな話だが、どうしようもなく今書きたいと思い、半ば本能的に書いていた。
というのもさっきまでベッドにいた私は、いたたまれない気持ちで布団から這い出し、そそくさと日記を書き始めたのだった。電気毛布を昨日の晩からずっと付けっ放しにしていたため、少し体がだるかった。
授業をサボっていた。寮の同部屋の友達には体調が悪いと仮病をつかった。理由は単に、めんどくさかったのだ。我ながらダメな奴だ。人間の弱さが出てしまった。
日記を読み返すと、反省の意で溢れていた。サボった直後に反省している。ベッドから這い出たのも、この懺悔の日記を書くためだった。自分がもし第三者だとしてこの一部始終を見ていたのなら、おそらく「だっさ(笑)」と声に出していたと思う。誠にカッコ悪い。せめて反省なんかするなよ、と言いたくなる。羞恥と自己嫌悪しかなかった。
自分は心底、カッコ悪い生き物だと思う。今「自分」を「人間」と置き換えて書こうか迷ったが、やめておいた。というか、そんなことを考えた単純な自分に嫌気がさした。「これは完全に自分の話だ」と思った。同時に、自分のこんなところが嫌いだ、と思った。一般化してしまうのは、逃げだし、甘えだった。そんなところまでもカッコ悪い自分に、笑いそうになった。お前は人間だけど人間はお前じゃない。そう簡単に共感を得て保身しようとするな。と、自分で自分を諭した。
私はこれを機に、そんな自分自身についていろいろと考えめぐらせた。
ある時、ベッドに散らかった服をダラダラと片付けられないでいる私の姿を見た同部屋の友達に、「人間らしいね」と冗談めかして言われたことがある。「もしかして今けなされた?」と思って、ちょっと面白かった。その子が冗談で言ったのはわかるが、そのとき「人間らしい」のいろんな意味が頭の中で浮遊した。人間らしい魅力的な人になりたいとは思うが、「人間らしい」で汚点を紛らわす人にはなりたくないなあ、とちょっと紛らわしいことを思った。
それは例えば、こんなことにも当てはまるかもしれない。寒さ対策を万全にした格好で出かける冬の寒い日が私は好きだ。自分らしいなと思う。でもそれを例えば「矛盾」だとか、表現が的確かどうかはさておき、「人間らしい」などで片付けるのは、どこか悔しいし、もったいない気がする。
良くも悪くも、自分自身とちゃんと向き合おうと思う。「向き合う」とは少々大げさにも聞こえるが、要は、コーヒーを二杯飲むことも、冬の寒さと防寒が好きなことも、そんなおかしな自分も、そんな自分らしい自分も大切にしたい。でも気ままにサボったりする自分、ベッドを片付けられない自分はもうそろそろいいかな、と思う。
「人間の弱さ」とかいう言葉で表してしまったさっきの自分が情けなくなった。スマートな言葉で言い切りすぎてしまった。ただの弱いだけの、自分だった。
続きの自分をどう描いていくのか、再びキャンバスの前で姿勢を正し、筆を握りなおさなければ、となぜか比喩法で思った。
ふとコップに目をやると、二杯目のコーヒーが濃厚な色を放っていた。啜るとすでに冷めていたが、おいしかった。