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近内悠太先生の 利他・ケア・傷の倫理学を読んだ

なんだかビックリしていて、感想を書かずにはいられなくなった。

私はケアの仕事を20年以上している。
最近、仕事での葛藤が大きかった。

この本を読んで、私は真っ当な葛藤を抱えている…と思えた。

利他自体が葛藤を内包している。

利他と道徳がぶつかる事があるなんて、具体例で語ってもらえてやっと意味が分かった。

利他とは人の傷に促された跳躍。
利他は愚行でないとダメ。

美談になれば利他は道徳に堕ちる。
道徳は共通の言語ゲームの中で踏み固められた規範。

利他はシステムのバグ。
バグだからこそ私の言語ゲームを書き換えられる。自己の変容。
言語ゲームの書き換えを自由と呼ぶ。

自分が傷を持つ方達の支援を仕事とし、ルールの中で働くことが苦しい理由が分かった。

私の日常のモヤモヤは、この本の中で既に説明されていた。

「言語ゲーム」という捉え方も腑に落ちた。
茶番をやっているような、時々バカバカしくなるような気持ちも、言語「ゲーム」でしかない事に私は薄々気がついているからなんだろう。

どっかでひっくり返る。
良かれと思って真剣に言った言葉ですら、人を傷つける。
リスクが怖い。
その人の受け止め方には手が出せない。

そもそも支援ってなんだ?
出口はどこだ?方向すら合ってる?

迷宮に迷い込んでしまった。

けれど、私はジャンプをする仲間を見てきた気がする。
羨望の思いで、跳べない自分を歯痒く感じながら、私は眺めてきた。

利他への無謀な跳躍は確かに美しかった。

モチベーションは?と私は何人にも問うてきた気がする。納得できる応えはなかった。
不毛な質問だったかも…。

この本には書いてあった。
きっとそれは出会ってしまったからなんだ。

それこそ、他者の傷に引き出された行動なのだろう。
言語ゲーム…と分かっていながら、他者のダンスに付き合う。
他者の言語ゲームにストップをかけない。
踊り続けることがケアになる。

きっと正しく私は迷っている。
この迷い道が助走になる。

いつか私も跳ぶのだろう。

その時、私の物語も書き換えられる。

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