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すずめの戸締り考察 ~なぜ彼岸花が咲く時期だったのか~

遅ればせながら、すずめの戸締り、観てきました。かなり心にくる描写もあり、事前情報の通り「震災や災害にトラウマのある人」には別の意味でも心にボディーブローが入りそうな(当事者でない僕もダメージ受けました)作品でしたが、とてもよい映画だったと思います。ここ最近の映画ではダントツ一位です。

そして、この映画、実に脚本や設定が細かい。本気で考察できそうな手ごたえを感じました。大体の映画は、フィクションにそこまでの整合性を持たせようとはしないので、「あの描写はなんだったのか」を細かく解釈しようとすると破綻したりして「脚本の人、そこまで考えてないと思うよ」になります。

しかし、この新海誠という監督は「信頼して脚本や演出を考察しても良い」と思いました。これはけものフレンズ(2017)で有名なたつき監督作品以来の感覚です。実力ある映画監督の脚本は、本気で取り組む価値があります。すずめの戸締りのほとんどの要素については既に多くのサイトで考察がなされており、日本神話とか民俗学的考察は納得できるものでした。しかし、この映画には生物学的、植物学的な不整合が存在します。これについては深堀りが見当たらず、ミスとかご都合主義と判断されているように見受けられます。

でも、この彼岸花の不自然さについても、ただの花言葉ではない、重要な意味があると解釈でき、その方が映画の構成が美しくなります。なお、この解釈には映画全編に触れることになりますので、読むと深刻なネタバレになります。まだ見てない方はお帰りください。









不整合

ではまず、何が不自然なのか解説します。
端的に言うと、植物の生育サイクルが明らかにおかしいのです。
劇中、特徴的な植物が2種類、重要なシーンで描かれます。
一つは彼岸花。もう一つはミカンです。劇中では、海部 千果がミカンを落とし、それを鈴芽がサポートするシーンがあります。


出典:https://twitter.com/suzume_tojimari/status/1606575410728251393


そして東京でミミズが出現したときに足元に彼岸花が咲いています。(画像なし)

彼岸花は日本全国に生えている株の全てが、唯一つの親株から株分れしたクローンと考えられています。遺伝子が同一なので開花時期は地域ごとに2週間程度に揃っており、日本全国でも1ヶ月程度しか誤差がないカレンダーのような植物です。その開花時期は、おおよそ9月20日~10月10日くらいです。

ミカン(ウンシュウミカン)はたくさんの種類があり、極早生では9月末、晩生種では12月頃までが収穫期です。ミカンの場合、あまり木にならせておくと腐ったり鳥や虫に食べられるので、収穫期以外に収穫されることはありません。おなじかんきつ類のダイダイ(橙)や夏みかんはある程度樹上にならせておけますが、皮が結構固く手で簡単に剥けるものではないので、劇中の描写と合いません(また、ダイダイは酸っぱい)。

しかし、雲の様子や全体的な空気感、また教員作用試験の二次試験に来なかった(二次試験は夏休み中、8月20日前後に設定されることが多い)ことなど、他の描写は8月を思わせます。


ミカンと彼岸花が同時成立する期間は存在しますが、教員採用試験は1ヶ月以上ずれます。つまり1ヶ月以上、人間のサイクルと植物サイクルがずれているのです。これは勿論、「死にゆく二人の旅路を彼岸花が彩りたいという作者都合と、開花時期の無理解」と片付けることもできます。しかし、新海誠の実力、そしてすずめの戸締りを含めた新海誠作品群における植物描写の精緻さを考えると、もっと深読みしても良いと考えます。

視聴者のいる現実世界とはずれたパラレルワールド

この「人間カレンダーと植物カレンダーがずれている」現象が意図されたものだとすれば、そのことで二つの意味が新たに生まれます。

視聴者にパラレルワールドであることを明示すること
鈴芽と草太の旅路が彼岸の期間中である(と設定できる)

この2つがあると、物語はより美しくなります。よって新海誠監督はこの設定を適用しています(一方的な断定)

パラレルワールドであると明示することの意味

『すずめの戸締り』は明確に3.11の東日本大震災を題材としています。このように「原典」がリアルに存在している場合、特に震災のように多くの犠牲者が出ている場合は、遺族に対する配慮が不可欠です。有名な事案として、1997年のアメリカ映画『タイタニック』におけるマードック事件が思い浮かぶ人も多いでしょう。
「1997年映画『タイタニック』の表現をめぐって」

マードック氏はタイタニックの映画内で、貴族など富裕層と貧困層との確執を描く板ばさみ役として、汚れ役を担いました。しかし、彼は実在した人物で遺族やその親戚もいたため、後に制作会社が強く非難されました

すずめの戸締りも同様の危険を孕んでいます。個人名は出なくても、被災地に実在した商店や施設に似ていた、そういう程度でも巡り巡って誰かを傷つけるかもしれません。

しかし、『すずめの戸締り』を一種のパラレルワールドとして描くことで、たとえ良く似たものがあっても「実在のものとは直接関係しない」という慰めが得られるわけです。しかもこれは後述しますが、「位相だけ異なるパラレルワールド」であり、物理的にも最適なパラレルワールドであり恐らくは最適解です。

具体的には、植物サイクルと人間サイクルの対応はこうなります。

大体1ヶ月ずれていると見ると、この部分で物語のカレンダーが符合します。「教員採用試験の二次試験後」で「彼岸花が咲いている」であり「極早生ミカンが収穫期」です。

鈴芽と草太の旅路が彼岸の期間中

そして、この時期が「彼岸」となっている、パラレルワールドなのです。
彼岸とは日本の雑節の一つですが

春の彼岸と秋の彼岸があります。そして春の彼岸・秋の彼岸ともに、昼の長さと夜の長さが逆転する中日の前後をあわせて7日間に設定されています。これは、先祖に感謝し供養する宗教的な意味と共に、(あの世とこの世や善悪や気候などの)境そのものも意味します。

要石のあり方や鈴芽の死生観、草太の使命が変化していく期間としてこれ以上の時期はないといえます。彼岸の期間中は生と死の境界が曖昧になり、最も後戸が開きやすかった、という解釈もできます。

また、彼岸の期間中は「悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている」ともされており、英雄譚として二人の成長を描く期間としても見ることができます。流石に六波羅蜜そのものに対応付けるのはこじつけに近いといえます。しかし、人の命が運で失われうるという冷酷な事実によって、生そのものに諦観をもっていた鈴芽がさらにその先、つまり一種の悟りに至る修行・成長期間と考えると、実に美しい脚本構成といえます。

「命とは儚く失われやすいものだが、それでも必死に生きることこそが死んでいった者たちへの手向けであり、いずれ自分が死したときにも生き残った者に期待することでもある。死は常に隣にあるからこそ、過剰に恐れたり死者に執着するべきではない。なぜなら、なにもしなくてもいずれは行く世界だからである」

そんなメッセージを僕は受け取りました。彼岸の間の話だとすると、このメッセージがさらに強化されるわけです。

どのような期間設定か

では、具体的にどのような日付になるか計算してみましょう。
人間のサイクルと植物サイクルのうち、作中の描写と合う期間は概ね2週間程度に絞られます。即ち、
人間のサイクルで8月21日頃~8月31日頃と
植物のサイクルで9月21日頃~9月31日頃
が物語の期間です。
作中の日付は分かりませんが、また現実の彼岸の時期に合わせたほうが想像しやすいので、キリ良く9月20日~9月25日までとしましょう。(もちろん、作中の日付は別にこの値でなくても良いのですが、月と日の想像しやすさでいうとこのくらいの値でないと視聴者が混乱します。)

彼岸の入りが9月20日である世界だったとすると、このような日付となり、彼岸の明けには無事帰路についている計算で、全てが彼岸期間中に終わっています。『すずめの戸締り』の世界での彼岸花は彼岸期間中にきっかり咲くということであれば、これは実に美しい設定です。

位相の違うパラレルワールドが最適

先に『すずめの戸締り』はパラレルワールドとして設定されていると指摘しましたが、パラレルワールドの設定の仕方にも妙技があり、物理的にも最適です。

それは、「位相の違うパラレルワールド」として設定されているということです。結論から言えば、位相だけ、時間の開始時点だけが違う物語は、ドキュメンタリーに近い臨場感、サイズ感、危機感があり、とても「リアル」です。しかし、微妙にずれているので明らかに「リアルだが現実そのものではない」とわかる、絶妙なズレ感を醸すことができます

物理の話

物理とか苦手な人は読み飛ばしてください。

物理的には、位相とは「波」に関しての用語で、位相がずれているとは波でいうとこんな感じです。

では、これがストーリーとどのように関連するかというと。脚本というか歴史を波として捉えることが、脚本というか物語の性質に対応させられるのです。

波のもつ個性には「周期」「大きさ」「位相」があり、この3つが全く同じであれば同じ波であるといえます。

周期が違う波はこうです。(周期と波長と周波数は本質的には同じ性質です)

物語で言うと、展開が速かったり遅かったり、物事が異なる速度で進む脚本です。ガンダムなどSFは周期が速い傾向にありますが、あまりに速いので科学技術の発展に関しては感情移入したり理解しにくくなります。文字通り作品の「波長に合わない」場合は視聴者が離れていきます。

大きさが違う波はこうです。(大きさと振幅は本質的には同じ性質です)

物語で言うと、話のスケール感や力などが違う脚本です。なろう系、魔法などで力や能力が大きくなる話では、現実よりも話のスケールが大きくなります。あまりに大きすぎたり小さすぎて理解できない、あるいは面白くないと感じられると視聴者が離れていきます。

最後に位相が違う脚本ですが、これは基本的に始点が違うだけでスケール感やスピード感は同じ、いわゆる日常系がこれにあたります。すずめの戸締りはミミズなどの怪異の存在を除いて、日常系といえます。地震の原因となるのがミミズであるものの、地震の被害の「大きさ」「周期」は同じであり、そういう意味で災害に苦しむ人たちの心情や生活苦は完全に等身大です。

まとめ

彼岸の時期が現実と異なるパラレルワールドとすると、リアリティのある災害映画でも問題が起こりにくくなります。さらに、彼岸の時期になされた旅であるとすると、とても美しい話になります。

位相が違う脚本では、人間の営みや人間関係などが非常に身近になり、第三者視点でありながら、誰かの実体験といってもよいほどの近しさがあります。しかし、先に示したように、現実そのものの描写、つまりドキュメンタリーではありません。この絶妙な位置を保つために、すずめの戸締りでは意図的に「位相だけずらした」パラレルワールドとして描いたのであろうと、僕は思っています。

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