見出し画像

「いじめは決して許されない」の矛盾

本記事はいじめについて書いてたんですが、どうもバランスが悪い気がして塩蔵すること3ヶ月?くらいの漬物記事です。忘れかけていたところへ素晴らしい記事が飛び込んできまして、バランスの悪い部分を引用記事にお任せして公開しようと思います。

出典:自分の心の声

突然ですが僕は、テレビなんかでいわゆる「有識者」とか「コメンテーターが」発言する「いじめは決して許されない」系の発言でいつもモヤモヤしてしまうんです。というか、一部の勘違いコメンテーターがこういう発言したらかなり「イラッ」としてしまうと思うんですね。

何故かって言うとこの発言だけで3点の疑問があって、発言したほとんどの人が自己矛盾しているからなんです。

  • まさか、自分は誰もいじめたことがないって思ってるの?

  • いじめを許すかどうかは本人次第では?

  • そもそも刑事事件といじめの区別つけてる?

1つめの矛盾「まさか、自分は誰もいじめたことがないって思ってるの?」


まずですね、文部科学省はいじめを「受けた側の人が嫌な気持ちになったり、痛みを感じたりすることを『いじめ』と呼びます。いじめを行った側の認識は関係ありません」という旨を述べています。これ自体、あまりに主観的で定義とはいえない代物だとは思いますが、しかしそういう認識でいろ、という問題意識自体は大切だと考えますのでこれは一旦置きます。

いじめは決して許されない! と指弾するコメンテーターの人たちにお聞きしたいのですが、「あなたは、自分が他人をいじめたことがない、とお考えですか?」。察しの良い方もそうでない方もここまで書けばわかっていただけると思いますが、「いじめの事実」がいじめられた側の認識に基づく以上、誰でも気付かずにいじめてしまう可能性は常にあります。コメンテーターや有識者は、この点を認識していながら「いじめは許されません!!!」って語気を荒げるのはちょっと良識を疑いますし、認識していないなら問題を掘り下げるには準備不足といえます。

このあたり、文部科学省はちょっとは意識しているようで、「弱いものをいじめることは”人間として”絶対に許されないとの強い認識を持つ」という風に表現しています。つまり、誰かが許すとか許さないとかではなく、”人間として許されない”という一種の慣用句で表現しているんですね。つまり恐らくは「絶対基準」というよりは「目標」としたいのでしょう。でないと、日本国民全員が”許されない”状況になりかねません。

余談ですが、小学校ぐらいのコミュニケーション能力の過渡期においては、本当につまらないことでいさかいを起こし、仲間同士で結束していじめたりいじめられたりは日常茶飯事です。また、「○○ちゃん、なんでお下がりばかりなの?」といった何気ない一言が友達を不登校にさせてしまうことだってあります。大切なのはそれが悪いことだとわかったときに謝罪し、落とし所を見つける練習です。謝罪を受け入れてもらってまた友達に戻るか、あるいはもう取り返しがつかないけれど対立はやめるという後味の悪い状態で妥協するかは本人達次第です。

そこでこの記事です。僕の心にピタッときました。そう! いじめた側にもケアが必要な場合があるんです! そしていじめられた側が逃げたり不登校になることの理不尽をもっと周知しましょう。本来は、「いじめた側が学校を休んで指導されるべき」だと僕も思います。全部が全部そうとは言いませんが。

集団で結束して無視し続ける」ような陰湿なやり方や、「物を壊す、盗る」「継続的に小突く以上の暴力を振るう」ような刑事事件にするべき案件を除けば、いじめ自体は早期発見と早期教育と早期解決が大切だと思っています。あまりに「許されない!!」ばかり主張すると、センセーショナルでなんだかすごい報道になるし注目も浴びれるかもしれませんが、発見したときに報告も対処も腰が重くなってしまわないかが気がかりです。

2つめの矛盾「いじめを許すかどうかは本人次第では?」


いじめには、本当にひどいものもあればちょっとしたすれ違い、勘違い、意地の張り合いから発展したものもあります。何でもかんでも「許されない!!!」ってスタンスだと、許されないなら先生に言いつけにくいし、教師の腰も重くなるのではないでしょうか。そもそも、許すべきかどうかはある程度は本人間で話し合って決めるべきです。刑事事件になるような暴行・恐喝などならまだしも、数日程度仲間はずれにする程度のことはだれでも経験するでしょう。どの程度まで許すかは本人次第ですし、友達の輪に入るために多少の妥協が発生することもあるかもしれません。

いや、皆さん忘れてるかもしれませんが、小学校のときってすごく馬鹿じゃないですか? 僕は間違いなく馬鹿でした。先生の言ってることなんて、理解しているような顔をしてきちんとは理解していなかったな、と今思うと恥ずかしいばかりです。なにしろ、「自転車の前輪のスポークにつま先突っ込んだら止まるかな?」ってのを猛スピードでやって一回転するくらいです。死ななくて良かった・・・

話がそれましたが、小学生や中学生くらいなら先生が見つけ次第報告され次第ガンガン指導すればいいでしょうし、タブー視すること自体がいじめの対応には悪影響だ、といいたいわけです。

3つめの矛盾「そもそも刑事事件といじめの区別つけてる?」


先に何度か書きましたが、いわゆる「いじめ」と一線を画す「刑事事件」というものがあります。冗談半分に友達の消しゴムを隠す、この程度は継続したり集団で行うのでなければ、厳しく判定しても「いじめ」と呼んでいいと思います。しかし、お金を巻き上げるのは「恐喝」です。子供だからといって刑事事件を「いじめ」に含めるのは甘すぎます。むしろ、このくらいの時期に「やってはならないこと」をきっちりと半分トラウマになるくらい(体罰ではなく)叩き込むことが、本人のためです。

そして刑事事件は警察に任せるべきです。安易に一般市民や教師が裁定に関わることは逸脱であり、また

このような悲劇を生んでしまう温床です(学校関係者と加担した生徒と旭川市教育委員会のクズっぷりは言うまでもなく)。教師は事件担当に慣れていませんし、そもそも職務の範囲外です。できないことをするものではありません。

報道も、「旭川イジメ14歳凍死」などと報道するのがおかしいのではないでしょうか。この事件を「いじめ」とするのは不適切だと考えます。明らかに「旭川中学生男子による暴行・○○・凍死自殺事件」です。いじめと刑事事件を混同することは、問題の矮小化とタブー化を同時に引き起こす悪手です。

これが言いたかった…

結局、報道で正義ぶっていじめを指弾してもいいことは無い、と言いたいのです。問題があるならそれに向き合い、解決に向けて歩み寄り、あるいは許さないなら許さない旨をはっきりさせる。こういう方向へシフトして欲しいな、という願望でした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?