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生い立ちstory【vol.2】「金庫入り娘」と呼ばれた社会人時代

♦︎看護師ママが伝える「生」教育
♦︎Beauty Japan近江大会2024ファイナリスト
はらいゆかです。

先日の記事の続きです。vol.1はこちら!


◾️私の進路選択

看護師になると決めた私は
大学に行くか、専門学校に行くか
進路に悩んだ。

我が家の絶対権力は父にあり
県外、ましてや下宿なんてありえない!

となると、私の進学先は
県内数か所の大学か専門学校になってくる。

進学校だったので、周りは大学一択!

私もオープンキャンパスに行ったり
色々調べてみたが
あまりしっくり来なかった。

一番ピンときた
地元の看護学校への受験を決めた。

絶対ここに行くと決めて
滑り止め受験はしなかった。

先生や友人から専門学校が第一志望で
滑り止めもなしという選択に
驚かれたが、自分の感覚を信じた。

キャンパスライフに憧れもしたけど
専門学校で実践を積んで
早く看護師になりたかったのだ。


◾️「金庫入り娘」と呼ばれて

無事に第一志望に合格!
高校を卒業して期待でいっぱいだった。

バイトもしたい、遊びも恋愛もしたい。
なのに、高校を卒業しても
我が家の門限は21時のままだった。

飲み会の途中で
「ごめん、うち門限あって・・・」
と、一人寂しく抜けることも多々。

おかげで箱入り娘どころか
「金庫入り娘やな」なんて
言われてしまった(笑)

今ではネタにしているが
言われた当時は結構な衝撃だった。

大切に思ってくれていたことは
分かっていたが
「何で私だけ・・・」といつも思っていた。

最後まで一緒に楽しめないこともそうだが
信頼されていないんだな
私に自由はないんだな
と感じたことが何よりも悲しかった。

もちろん、反抗したこともあったが
絶対権力に即座に潰され
これ以上逆らってはいけないという
防衛本能が働いた。


◾️絶対権力の父

ここで少し、
「絶対権力の父」に触れておきたいと思う。
どんな人なのかとお思いでしょう(笑)

一言で言うと
「THE★昭和の体育会系頑固おやじ」

令和にアップデート出来ておりません(笑)

どんなに仕事が忙しくても
弱音を吐く姿を見たことは一度も無い。

休日には一緒に遊んでくれたり
色んな経験をさせてくれる
家族思いの父なのだがー..

彼は「怒り」の感情がまぁすごい!

「父の逆鱗に触れてはならない」
という暗黙のルールが
我が家には存在しているのだ。

すぐに怒りでねじ伏せられ
対等に話しを出来ないことが
悲しかったし、とても怖かった。

もっと私の気持ちを聞いて欲しかったし
信頼して自由を与えて欲しかったなと思う。

そんなに悪い子では無かったと思うが
怒られた記憶が強すぎて
もっと普通に話をしたり
家族で笑い合いたかったなと思う。

今でも家族仲が悪いわけでは無く
むしろ大人になってからの方が
互いに助け合えるいい関係性を築けている。

しかし、子ども時代を振り返ってみると
健全な家族関係、親子関係とは言い難かった。

私が育児で躓いた根源、
生きづらさの根源はここなのだろう。

でも、もうそれを言い訳にはしない!

体罰が当たり前の時代に運動部で鍛えられ
家庭でも相当厳しく育てられてきた父。

私から見ても祖父母はかなりの毒親で
父自身、色々な葛藤があり
今だに拗らせているのだろう。

父の生い立ちにまで考えを巡らせることが
できるようになったのはここ数年のことで
当時は正直、嫌悪の気持ちが強かった。

色々なことを学び、経験し
どん底の中で自分と向き合ってきたからこそ
ここまで成長して来れた。

私の人生は私のもの!
自分のことは自分で決める!
きちんと自分の人生の手綱を取り戻せた今、
父を理由に自分を諦めたくないからだ。

自分を生きる覚悟と責任
父の存在が教えてくれたのだと思う。

だからこれで良かった、
これが私の生い立ちなんだと
今、ようやく認められる。


こんな親子関係を私は絶対に築きたくない!
負の連鎖は私で終わりにする!

と、強く心に誓った。


◾️看護実習で起こった悲劇

家庭での縛りはあったものの
バイトに遊びに勉強に
充実した学生生活を送っていた。

テストや実習のたびに寝不足で
フラフラになりながらも必死で取り組んだ。

今でこそ思い出話だが
もう絶対に学生には戻りたくない(笑)

看護専門学生の実習は特に過酷で
毎日膨大な量の記録物を持ち帰るのだ。

患者さんの疾患を調べて
病態生理をまとめ
患者さんに合った看護計画を立て
その日行った看護記録を書く。

これを実習が終わって帰宅してから
期間中、毎日のように繰り返すのだ。

実習中は、気疲れもすごかった。
ただでさえ忙しい日々の業務に
学生指導が追加され
現場の看護師さんたちはピリピリムード!

指導者さんや病棟看護師さんの
邪魔にならないように
空気とタイミングを見計らって声をかける
そんな独特のスキルも磨かれた(笑)

寝る間も惜しんで課題に取り組み
自分の担当患者さんのことをひたすら考え
全力で実習に向き合った。

そんな中で、悲劇は起きてしまった。

ある実習で、私は70代の男性を担当していた。
血液の癌患者さんだった。
お孫さんもいらっしゃるような
普通の優しいおじいちゃんだった。

過酷な実習を乗り越えてきてようやく最終日!

評価が気になってソワソワした気持ちと
やり切った気持ちでホッとしていた。

患者さんの病室を訪れて
お世話になったお礼を伝えながら
いつも通り血圧を測ったり
お話を聞いたりしていた時に悲劇は起こった。

突然胸を触られたのだ。

えー...?
パニックで頭が真っ白になった。
何が起こっているのか分からなかった。

声を出すことも抵抗することも出来なくて
正気に戻った後、病室を飛び出した。

思い出すだけで今も辛くて苦しい。
ショックで前後の記憶が途切れ途切れ…

なんでー..?
何が起こったのか、何がいけなかったのか
もう訳が分からなくなって涙が溢れた。

実習期間中、全てをかけて向き合ってきたのに
最後の最後にこんなことってー..

怒り、悲しみ、悔しさ、怖さ、不甲斐なさ
色んな感情が入り乱れた。

評価面談の時に話そうとしても
言葉が出なくなってしまった。
ただただ、涙が止まらない。

異変を感じた先生たちは
落ち着くのを待って話を聞いてくれた。

看護部長やお偉いさんが謝罪に来て
親に連絡するとか、警察にとか話をされたが
「連絡するのはやめてください!」と
強く言ったことだけは覚えている。

なぜ抵抗しなかったのかと怒られるかも
親を悲しませることになる
私にも悪いところがあったのかな?

めちゃくちゃ辛かった
めちゃくちゃ傷ついた
絶対に許せない!
なのにそう思うと公には出来なかった。

まさか実習中にー..
まさか自分がー..
夢にも思わなかった。

性犯罪に対する知識もスキルも
全く持ちあわせておらず
どうすることもできなかった。

空手黒帯だからって
どうすることもできなかった。

その後の実習では女性患者さんを
担当させてもらえるよう配慮があり
なんとか卒業までやり切れた。

しかし、この日以来
自分が汚れた汚いものに思えたり
価値のないこんな私はー..と自暴自棄になった。
ただでさえ低い自己肯定感を地に落とした。

この傷はしつこく私を苦しめた。
当時の彼とは別れを選んだ。

以降の恋愛でも
好きな人にほど好きだと言えなくなった。
こんな自分が一緒に居ていいはずがないと
本音を隠してブレーキをかけた。

心が死んでしまったようだった。

目には見えないけれど
今も傷は消えない。
忘れたくても忘れられない。

私が性教育を伝える中でも、特に
防犯の話に力を入れている理由の一つは
間違いなくこの出来事があったからだ。

子どもたちに同じ思いはさせたくない。
性を学ぶことで少しでも
防犯に繋げることができればー..

乳幼児期から心と身体を大切にされる経験をし
正しい知識を身につけることによって
相手を大切に思える気持ちを育み
加害者になる人が一人でも減ったらー..

そんな思いがある。

加害をした方が100%悪いんだよ!
辛い思いをしたと思うけれど
あなたの価値はちっとも変わらない!

この言葉をようやく
自分で自分にかけてあげられたのは
本当に最近のこと。

私は乳幼児期からの性教育を通して
もしも何かが起こった時には
子どもから相談してもらえる人でいたい。

怒られる、悲しませるから言わないのではなく
ママに話したいと思ってもらえるような
信頼される大人になりたい。

そして、同じような境遇の人がいたら
あなたは悪くないんだよ!
自分に価値がないだなんて思わないで!

と、声を大にして言いたい。

ただ知識を伝えるだけじゃない。
人の気持ちに寄り添える
何かあった時に思い出してもらえるような
母親・地域に根ざした講師でありたい。


◾️看護師としてのスタート

そんなこんなで、辛い経験もしたけれど
国家試験に無事合格!
晴れて看護師となった。

最初から赤ちゃん・子どもと関われる科!
と、決めていた。

小児科と産婦人科も希望していたが
小さく早く生まれた赤ちゃんを主に看護する
NICU・GCU病棟の配属になった。

私には2つ下、9つ下の弟がいる。
9つ下の弟が生まれた時に
赤ちゃんて何て可愛いんだろう!尊い!
と、すっかり母親気分で溺愛した。

そんな影響もあってか
赤ちゃんや小さい子どもが大好きになった。

看護学校での勉強も
母性看護と小児看護の勉強は
楽しくて仕方がなかった。

実際に働いてみると、
当たり前だが可愛いだけではやっていけない
とても繊細で緊張感のある現場だった。

大きな音を出さないように
感染を起こさないよう清潔に
常にモニターに気を配って
0.1ml単位の世界で神経を使う日々。

赤ちゃんは本当に可愛かったが
いのちの重みというプレッシャーに
押しつぶされそうな日々だった。

モニター音が夢にまで出てきて
うなされて眠れない時期もあったが
同期や信頼できる先輩のおかげで
結婚して香川に引っ越すまで
何とかフルで働き続けることができた。

ここでの看護を通して
色んな家族のカタチを見てきた。

色んな授かり方をした人がいた。
色んな妊娠経過を辿ってきた人がいた。

いのちの始まり・妊娠経過・お産
一人として同じ人はいない
教科書通りにはいかないことを学んだ。

元気に生まれてくることが
いかにキセキ的なことなのか痛感した。

退院して自宅に帰ることは当たり前ではなく
時には乳児院に引き取られていく子もいた。

シングルマザーとして
一人で育てていくことを決めた人もいた。

発達の遅れが予測される子
重度の障害が残った子もいた。

色んな子がいて、色んな家族のカタチがある。
それでも同じなのは、いのちの重さだけ。

大切ないのちを授かった一人一人が集まって
この社会は成り立ってることを知った。

どんな子も本当に可愛くて
忙しい日々の中でも赤ちゃんに癒されたし
一人一人の存在を尊く感じながら
仕事が出来てとても幸せな看護師生活を送れた。


生い立ちstory vol.2
【「金庫入り娘」と呼ばれた社会人時代編】
ここまでとなります!

ここまで読んでくださった方
本当にありがとうございます。

これを書くのに1ヶ月かかりました。

向き合うことは辛くて苦しかった。
だけど、「言える」と「癒える」は本当ですね。

今ようやく、自分の過去も含めて
これが私だと言うことが出来ました。

私が性教育を通して向き合っているのは
自分自身なのだと分かりました。

その上で、どう生きるかー..
周りの人たちに「生」教育を伝えることだと
書き終えてようやく
講師として私が伝える意味が分かりました。

自分自身と、過去と
向き合う決心が出来たのは
Beauty Japanに挑戦すると決めたから!

次回、【はじめての育児編】となります。
私にはもう一つ向き合うべきことがあります。

人生の転機となった我が子との出会いについて
書き記したいと思います。

良かったらお付き合いください。

2024.1.24 はらいゆか

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