見出し画像

鶏が鳴き、都電が走り、住民が銀杏を拾ったまち・神田 -写真と語りから浮かぶまちの記憶-


(文=まもる)

突然ですが問題です。

この写真は、どこの写真でしょう?

画像1

写真:1958年(昭和33年)8月10日 撮影:朝日新聞
(発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 懐かしい「昭和の時代」にタイムトリップ! 第4巻』より引用)

こちらは昭和33年(1958年)の東京都千代田区に位置する皇居の一部です。

写真左下の、三角になっている場所の大木は、関東大震災を耐え抜いたと言われる震災イチョウです。

そこから道路を跨いだ先にある、3つ並んだ長い建物は、コロナ禍でワクチンの大規模接種会場となった場所です。

ちなみに、写真が撮影された昭和33年には、特急こだまの登場をはじめ、ミスタージャイアンツの長嶋茂雄氏がプロデビュー、東京タワーの完成、子どもたちの間ではフラフープがブームになっていたようです。聖徳太子が印刷された一万円札が「新・一万円札」として発行されたのもこの頃です。

今私たちが生きている神田も、長いまちの歴史の一つの側面です。今回の記事では、神田に住んできた人の語りと昔の写真から、今とは違った神田の姿を見てみます。


スクリーンショット 2022-07-08 16.21.35

(昭和)20年の8月でしょ、終戦。その時にいち早く、富山の田舎から、材木を大八車で積んで私のおじいちゃんが運んできてくれたんですって。

そう語るのは、昭和18年(1943年)生まれの坂田さん(仮名)。

坂田さん家族は明治時代から神田で商売をしていた。第二次世界大戦中、まだ「幼子」だった坂田さんは地方へ疎開しており、神田の自宅は昭和20年2月の空襲で焼失したという。

終戦後、実家が建ったと報告を受けた坂田さん家族。坂田さんは、祖母に背負われながら神田に戻ってきた。

どこに住んでたのかもわからないんだけど、これがうちだって言って。とにかく歩きながら入るじゃないですか。そしたらうちの数軒先に一戸がポツンと建ってた。それ以外は本当に瓦礫の山で。

そのあとどんどん復興してきたっていうのは、あんまり印象にないの。でも、私が小学校に入ったのは昭和25年なんですけど。その時は、時限立法*や朝鮮動乱(朝鮮戦争)があったじゃないですか。

あそこで、すごく一気にね、なんていうのかな、物資が日本から送られて、景気が良くなって、だから経済が循環してきて、ここら辺に(家が)建ったんじゃないですかね

坂田さんが住んでいた地域では、印刷や製本など本に関連した工場が多かった。1階は工場で2階が住宅という、職住一体の形態をとっていた家がよくあったという。

画像3

写真:昭和25年(坂田さん提供)

画像4

写真:昭和30年(坂田さん提供)

坂田さん家族は、家の敷地内で鶏を何匹か飼育し、小松菜も育てていた。坂田さんが住んでいた地域には、旅館や豆腐屋、乾物屋、魚屋、肉屋、八百屋など、多種多様な商店が軒を連ねていた。

また、坂田さんの自宅の前ではキャッチボールをしている子どもたちもいたらしい。たまにガラスを割ってしまう子がいたためなのか、ガラス屋さんもあったとか。

のどかなまちだったんですよ。

と、坂田さんは語っていた。


スクリーンショット 2022-07-08 16.24.44

坂田さんに『おはようございます!』って言うと、黙って『おはよう〜』とかなんか言って、『どこの子なの?』って言うから、『あそこのお店の子どもです』って言ったら、『あ〜、あそこの坊や?』って言うから、『坊や?まいったなぁ』って。

そう語るのは、今も神田で飲食店を営む石川(仮名)さん。石川さんと坂田さんは2歳違いである。

石川さん:僕はあそこ(自宅)からずーっと歩いて、ここ(共立講堂)まで。そこに都電が走ってました。
ここが一橋。神保町、三崎町、水道橋、後楽園、えー、柳町、八千代町、指ヶ屋町が、ちょうど通っていた学校なんですよね。

坂田さん:あそこの共立の前のところ、神田橋から都電が出るんですよ、ずーっときて。で、共立の前が私の一番近い停留所だったから、そこから乗って、向こうの水道橋の方へ

都電は終戦後から都民の足として、東京の交通を支えていた。最盛期には41路線も存在した都電は、現在、三ノ輪橋から早稲田の間の12.2kmを荒川線が走行しているのみである。

坂田さんと石川さんは都電を使って、中高へ通っていたらしい。

画像6

写真:昭和43年11月(都電百景百話正・続より引用)

石川さん家族が営むお店は神田の人気店。当時は出前の数も多く、石川さん家族と「若い衆」が、常時16, 7人でお店を切り盛りしていたという。
石川さんの自宅から都電の駅までにある通りには、イチョウの木々が今なお植えられている。

みんなでこうやって、銀杏をこう、ほぐして、どこの銀杏が1番大きいかとか(探してました)

あそこの前のあたりが結構大きかったんです。で、そこも銀杏大きいですよ。ここ(のビルは)なかったもん。

画像7

写真:石川さんが「実が大きかった」と語るイチョウの木があった場所
木は伐採され、ビニールシートが被さっていた(筆者撮影)

そんでうちの大きい釜で、バンバンバンバンやって、みんなでパチパチパチパチやって、ビール飲みながらみんなでやってたんですよね。

みんなで銀杏を拾って、それをみんなで食べる。まちも綺麗になる。まさに一石二鳥だ。

一番、この辺で大きいのは、和田蔵門のところ。あそこが一番大きいですね。このくらいの木を思いっきり、上に、こうやって投げると、バーンって、何回かこう、ぶら下がるんですよ。で、周りの掃除夫のおじさんが、『おい、どうするんだ?』って。

僕らが、ほうき持ってくふりして『ビニール袋の中に、全部入れてきますから』って言ったら、『おぉー!それならいいよ』って言って、何にも言われなかった(笑)ちりとりで全部ビニール袋の中に入れちゃって、そのまま台車にのっけて(持って帰ってきました)

近所の、えーっと、あれは八百屋さんに、『このぐらい取れたけど、いくら?』って言うと、『こんなに取れたら二万円かな?』って

当時の二万円というと、今だと一体いくらなんだろう?
この記事を読んでくださっている方は、今秋の銀杏を拾いに行く計画を立てている頃だろう。

そこの通り、向こう側の通りずーっと行って、信号大きい通りを右に曲がると、すぐ、南明座があったんですよね。

南明座とは、神田で営業していた映画館のことである。

さくら通りのところ。ずーっと入っていくと右側に東洋キネマってあったんですよ。で、専修大学のところ右行くと、すぐに、銀英座って、東映の映画館があったんです。

この他にも、日活や松竹系などの映画館が、神田で営業していたという。

画像8

写真:昭和42年5月、神田日活映画館前の風景
(「都電百景百話」より引用)

当時は映画のチケットが、新聞の集金に来た方々によって配られていたという。そのため、石川さんは小学校が休みの日曜日によく行っていたらしい。私の両親も、幼少期の頃は映画によく行っていたそうだ。


スクリーンショット 2022-07-08 16.28.53

うちはお宅へみんなで入りに行きました。

石川さんはお店の「若い衆」たちと、私の祖父が始めた稲荷湯へ来ていた。石川さんが営むお店の近くにある銭湯よりも比較的広かった稲荷湯は、仕事終わりに大勢で入浴するには都合が良かったのだろう。

僕は小学校中学校高校あたりまでは、(お店は)11時ごろまでやってましたもん。

ご飯食べないで、お宅のお風呂みんなで行っちゃって。それからご飯を食べてた。

当時の稲荷湯は、日を跨いで12時半頃まで営業していた。
1日の疲れを風呂で流してから、食事を摂って、寝床につき、次の仕事へ備える。そういうルーティーンが出来上がっていたのだろう。

(まもるの祖母が)番台に座ってて、『あぁ来てくれたのね』って。11時に来るって約束だから。みんなどぉっと入って来るから。

石川さん御一行は、多い時には23人で来ていたらしい。
30年前の11時台は、さぞ賑やかだった事だろう。祖母も、石川さんたちと結んだ約束を楽しみにしてたのだろうなぁ。


スクリーンショット 2022-07-08 16.29.40

昔からある建物やお店はテレビで特集されることもありますが、普通の家や沿道に植えられた木にも、それぞれに色々な人の思い出が詰まっています。そうした記憶はお金に変えられない価値がある、と私は思います。

私自身、神田で生まれ育っているのに、全く知らないまちの姿がお二人の話から浮かび上がってきました。昔の神田の話を聴いているのに、私にとってどのお話もとても新鮮で、その時代を生きていないのに、なぜか懐かしさを覚えました。

地域の図書館には、郷土資料として昔の写真を掲載している本や雑誌が多くあると思います。最近では移動の制限が緩和されてきており、帰省もしやすくなったと思います。様々な方法で、色々なひとが見てきたまちの歴史を知ることができるでしょう。

みなさんも、身近な人にふらっと、昔のことを聞いてみるのはいかがでしょうか?

お風呂で話を聞く際には、のぼせないようにご注意ください。

私は、人に話を聴き、昔の写真を読む、という趣味は、当分やめられそうにありません。みなさんも稲荷湯へ来て、お話頂けたら嬉しいです。

*時限立法
一定の有効期間を付与した法令のこと

参考文献

雪廼舎閑人(1982年)『都電百景百話』大正出版
雪廼舎閑人(1982年)『都電百景百話正・続)大正出版
三好好三、2021年、『発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 懐かしい「昭和の時代」にタイムトリップ! 第4巻』フォト・パブリッシング
Aflo, 「特集 1958年の出来事」(最終閲覧2022年7月10日)
https://www.aflo.com/ja/editorial-images/features/903
参議院法制局,
 「限時法」(最終閲覧2022年7月10日)
https://houseikyoku.sangiin.go.jp/column/column041.htm#:~:text=%E3%80%8C%E9%99%90%E6%99%82%E6%B3%95%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81,%E3%82%88%E3%81%B0%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
東洋経済、2018年、「昭和の東京を縦横無尽に走った『都電』の記憶」
https://toyokeizai.net/articles/-/233836 (最終閲覧2022年7月10日)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?