「正義と微笑」 太宰治


太宰治の「正義と微笑」を読んだ。

新調文庫「パンドラの匣」に収録されている。

太宰は、「『正義と微笑』は青年歌舞伎俳優T君の少年時代の日記帳を読ませていただき、それに依って得た作者の幻想を、自由に書き綴った小説である」と述べています。

太宰にしては、なかなか前向きで清涼な小説でした。

〜あらすじ〜

少年は楽観的な兄から一高への進学を期待されていますが、第一志望の一高には行けず、代わりにR大学へ進学します。しかし、ふとしたきっかけで、自分の本当の夢は俳優になることだと気づきます。兄の助けを受けて、俳優の道を志し、そして成功していく過程を日記形式で綴っています。

〜抜粋文〜

なかでも、主人公の中学時代の恩師の言葉が、自分には名言に感じました。

以下、抜粋

「もう、これでおわかれなんだ。はかないものさ。実際、教師と生徒の仲なんて、いい加減なものだ。教師が退職してしまえば、それっきり他人になるんだ。君達が悪いんじゃない。教師が悪いんだ。じっせえ、教師なんて馬鹿野朗ばっかりさ。男だか女だか、わからねえ野朗ばっかりだ。こんなことを君たちに向かっていっちゃ悪いけど、俺はもう、我慢が出来なくなったんだ。教員室の空気が、さ。無学だ!エゴだ。生徒を愛していないんだ。俺は、もう、二年間も教員室で頑張ってきたんだ。もういけねえ。クビになる前に、俺のほうから、よした。きょう、この時間だけで、おしまいにしよう。もう君たちとは逢えねえかも知れないけど、お互いに、これから、うんと勉強しよう。勉強というのは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう、何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つということなんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!これだけだ、俺の言いたいのは。君たちとは、もうこの教室で一緒に勉強は出来ないね。けれども、君たちの名前は一生忘れないで覚えているぞ。君たちも、たまには俺の事を思い出してくれよ。あっけないお別れだけど、男と男だ。あっさり行こう。最後に、君たちの御健康を祈ります。」

もし自分に子供ができて、何か小説を読ませるときには、この「正義と微笑」を勧めるかもしれないです。太宰にしては明るく前向きな小説な上、自分が感じている勉強する意味みたいなものを、端的にするどく突いており、とても共感できたためです。私は本は読み終わったら、たいていのものは売って手許に残さないタイプなのですが、この本は残しておこうかな・・・。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?