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オンラインにおける〈居られなさ〉の考察 −舞台上での演技経験の分析を交えて

こんにちは、ゆーのです。

自己紹介↓

対話と場づくりの人。散策者所属。東京大学物理工学科。ワークショップ企画運営の軸に《場のゆらぎ》を据えています。関心キーワードは現象学、組織文化。最近はもっぱら、オンラインにおける対話の可能性と限界について考えています。Twitterはこちら。



なぜ今、『オンラインにおける対話の可能性と限界』を考えるのか

この、シリーズ『オンラインにおける対話の可能性と限界』とは、その名の通り「オンラインにおける対話」について考察をするという企画で、毎月6日に考察をまとめたnoteを公開しています。ちなみに、第一弾と第二弾には、それぞれこんなことを書きました。


このシリーズは、オンラインにおける対話とオフラインにおける対話の違いを明らかにすることを目的にしています。

3ヶ月前に緊急事態宣言が発令されてから、多くの対話の場がオンライン化されるようになりました。そして現在、zoomやmiroなどのコミュニケーションツールの力を借りつつ、オンラインにおける対話の場は、着実に発展を続けているように思われます。

むしろ会議やミーティングなど、オンライン化された対話の場のなかにはオンラインの方が効率がいいと感じられるものもあるのではないでしょうか。この点に関しては、みなさんもご経験されていることかと思います。今後も、たとえ感染が収束しても一部の対話の場はオンラインにとどまり、より最適化されていくことでしょう。


しかし、私はここで、ある点について明確にしておく必要があると考えています。それは、オンラインにおける対話の場とオフラインにおける対話の場は、はたして全く同じものなのだろうか? ということです。

少なくとも今後数年間は、オンラインとオフラインの対話の場が共存せざるを得ない世界になるでしょう。そうなれば、環境に依らないでよい対話の場づくりを行うために、オンラインとオフラインという環境をよく知り、そのうえで適切に使いわけることは必須となってくるでしょう。

私がこのシリーズを執筆しているのも、まさにそういう理由です。オンラインにおける対話の場は、私たちの多くにとって未知の領域です。したがって、環境に依らない良い対話の場づくりのためには、『オンラインにおける対話の可能性と限界』を知ることが、必要不可欠だと感じているのです。


前置きが長くなりました。次の章からは、ようやく今回のテーマに入ります。


0. 分析の目的と概要

今回の考察は、演劇活動をしているある大学生(以下、Bさんとします)に計2時間のヒアリングを行い、そのデータを分析したものです。そして、今回の分析の主題はタイトルの通り、オンラインにおける〈居られなさ〉です。

誰しも、普段の生活のなかで「居心地が悪いなぁ」と感じることは一度や二度、あるのではないでしょうか? 今回は、Bさんの語りのなかで登場した、オンラインの場において感じられる居心地の悪さ(=居られなさ)について、以下のような問いを起点に考察をします。

・どうして〈居られない〉のか?
・オンラインで〈居られる〉ためにはどうすればいいのか?

分析では、まず、オンラインにおける〈居られなさ〉の一例である【画面の中に居なきゃいけないっていうのが辛い】という語りを紹介してから、Bさんの舞台上での演技に関する語りから「そもそも〈居られる〉とはどういうことであるか」ということについて考察をします。そして最後に、それらの考察を踏まえ、オンラインで〈居られる〉ための施策をいくつか提案します。これが今回の文章の全体像です。

途中、長い生データが登場することもありますが、ぜひじっくりと読んでみてください。私の分析よりもむしろ、そういう語りの方が多くを語ることもあります。

それでは、どうぞお付き合いください。



1. オンラインにおける〈居られなさ〉について

はじめにご紹介するのは、オンラインにおける〈居られなさ〉についての語りです。

「そもそもオンラインでの〈居られなさ〉とはなんだろう?」
「どうして〈居られない〉のだろうか?」

という問いを頭に置きつつ、読んでいただければと思います。

筆者:その感覚(=居られる、居られないという感覚)、オンラインではどうですか?居られる、居られないみたいな。
Bさん:ああ・・・。ああでもなんか、たまにありますねなんか、画面の中に居なきゃいけないっていうのが結構、辛いときはありますね。それこそ、あーなんか例えば、こう3人以上で話してて私は話してないけど他のひとが話していて、自分は話している人同士の顔見たいから分割画面にするんですけど、そうするとこう自分の顔が出てくるじゃないすか画面に。でこう、別に、強制されているわけではないんですけど、なんかその枠の中に居なきゃいけないみたいな、風に思って、なんかその場に居るのって結構、この枠から出たいというか居なきゃいけないのが辛い、みたいなのはあるかもしれません。
筆者:なるほどね?なんかでもそれって、例えばその小学生の時に下校班で3人(筆者注:この直前に、小学校時代は仲の良い3人で下校していた、という語りがあった。)で仲良くしてたのと構造的にはあんま変わんないじゃないですか。でも別に、3人で居るのは辛くなかったんじゃないかなと思うんですけど、それはどう違う?
Bさん:・・・んーなんかまず一つ違うなって思うのはなんか自分の様子を目の前で見させられるっていう、のは違うかなって思いますね。なんか、その見させられるってことによってなんか、なんていうんでしょ、こう、んー・・・、そう見させられることによってすごく自分の状況に目がいっちゃう感じがするんですよね。なんか、自分がどうあろうとしているのかがこう目の前でこう、ずっと画面の中でずっと映し出されているっていうのは、なんていうんでしょ、客観視というか、自分が主体としてこう居て、その周りの2人が喋っててっていう、その小学生の時の状況とまた違って、そのなんか、画面の中の私はその参加者としてそこにいて、他のその2人なら2人の話してる状況を見てるっていう構造なんですけど、さらに画面の外に私がいることによって画面の中の私と外のこの、画面を見ている私みたいな、のが存在するのはなんか違うところかなって思いました。
(中略)
んーなんか、ほんとはというか、その、話してる2人の話している内容とか雰囲気とか、そういうものを追いたくて追ってるはずなのに、自分の視界の中に、画面の中の自分が映り込んでくると、なんかその2人の話が行われている最中に私がどう振る舞っているかがこう、目の前に提示され続けるので、なんか変によくあろうとしてしまう感じがあって。んー、なんかよくあろうとする、のって、ハードなんですよね たぶん。なんかこう、それはオンラインとかオフラインとかたぶん限らずですけど、なんかこう、人と関わり合いながらこう生活してると、こういう、多かれ少なかれ自分を、なんかどう見せよう、みたいなのってある気がしてて、なんか、私は、なんか、特にその中でもなんか、よく見せようとしちゃうところがあるなっていう自覚があるんですけどそのー、なんか、よく見せようとしちゃう傾向がある、私、に、の、目の前に、リアルタイムで自分が今どういうふうに映っていますよー が提示され続けると、よく映るように振る舞おうとしすぎちゃって、疲れることがある気がしますねなんか。まあなんか、疲れるならよく映ろうとしなきゃいいいじゃん、って思うんですけど
筆者:確かに。
Bさん:思うんですけど、できないんですよねそれが

この語りでは、【画面の中にいなきゃいけないっていうのが辛い】ということが〈居られなさ〉の例として登場しています。この〈辛さ〉はとても重要ですので、まずは、その仕組みについて整理してみましょう。

**重要概念1**

【画面の中にいなきゃいけないっていうのが辛い】
 Bさんは画面の中にいることを〈強制されているわけで〉も、〈(画面の)枠から出たいという〉わけでもない。ただ、Bさんは
 ・〈画面の中の私と、外の画面を見ている私が存在〉していて、
 ・(画面の中の)〈自分の様子を目の前で見させられる〉と、
 ・〈すごく自分の状況に目がいっちゃ〉い、
 ・〈変によくあろう(よく映ろう)としてしまう〉。
 ・  そして、そのために〈疲れる〉。
のである。

*********

また、ここで取り上げておきたい重要な点が2つあります。

まず、〈それはオンラインとかオフラインとかたぶん限らずですけど、なんかこう、人と関わり合いながらこう生活してると、こういう、多かれ少なかれ自分を、なんかどう見せよう、みたいなのってある気がしてて〉とあることから、〈よく映ろう〉とする意識の作用はオンライン・オフラインに共通するものであるということ、

そして、〈まあなんか、疲れるならよく映ろうとしなきゃいいいじゃん、って思うんですけど(中略)できないんですよねそれが〉とあるように、この疲れるプロセスは意図されたものではない、ということです。

つまり、この【画面の中にいなきゃいけないっていうのが辛い】ということの辛さは、よく映ろうとしすぎることで疲れることの辛さであり、また、そのプロセスは本人が制御できるところのものではありません。


さて、これでオンラインにおける〈居られなさ〉の正体が明らかになりましたが、すると次のような疑問が湧き上がってはこないでしょうか?

「居られなさについてはよく分かったが、じゃあ〈居られる〉とは具体的にどういうことなんだ?」

まさに、この疑問に答えるのが、2、3章の語りとなります。

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2. そもそも 〈居られる〉 とはどういうことか?

ここで紹介するのは、Bさんが参加していたある劇団の稽古についての語りです。この場面(シーン)ではBさんが一人だけ舞台上に出ることだけが決まっており、演技内容は全てBさんに任せられている状態です。この語りでは、そのような居心地が悪いほどの自由な状態から、Bさんがどのように〈居られる〉感覚を獲得していったのか、という変遷が語られます。

Bさん:これはあのー〇〇〇〇[劇団名]の、〇〇〇〇[作品名]をやったときの稽古のことなんですけど、なんかあの私が一人だけ出るシーンがあって、そのシーンの練習をした稽古の日、なんですけど。(中略)その部屋(筆者注:舞台上にあったブルーシートを、セリフ中に登場する“部屋”に見立てていた)に、入って、で、えーっとシーンが終わるときには出るっていう、それだけ決まってて、で、ま決まりはそれだけだったんでとりあえずやってみようって話になって、とりあえずやったとき、(中略)本当に一番最初にやった時は、もうなんか、入って出るしか決まってなくてもう何すればいいか全然わからなくて、まとりあえず目についたかざぐるま(筆者注:舞台上に置いてあった小道具の1つ)を手にとって回すっていうことをしたんですけど、それはなんか、うーんしっくりはこなかったんですけど、なんか(それを)見てた演出は「物 手に取るのはいいかもね」みたいな話になって、うーんしっくりはこなかったけどこれがいいのかと思いながら、次ーは、えっとー、ちょっとこの、んー何回目かはちょっと忘れちゃったんですけど、その後にやったもう一回やってみたときに、えっとーなんだったかな、あえっと、その時は、あえっと最初かざぐるまだったんですけど、今度はマグカップ(筆者注:同じく小道具の1つ)、なんか部屋に見立てたブルーシートに入ったときにマグカップが目についたんでマグカップの方によっていって、触れて、それからあ持ち上げて触れて、置いて部屋を出るっていうのをやったんですけど、なんかすごく、んー、なんて言えばいいのかな、ちょっと納得がいったというか、なんかかざぐるま、に、触れた時はんーごまかしというか正直、その手に取る意義というか理由というかというものは全くなくて、だったんですけど、マグカップの方は手に取ることが自分にとって意味のあること、だった、んですよね。んー、それはセリフを言っててそのセリフに結びつくっていう、そういう、なんか、という意味で意味があること、だった、んですけど、なんかその、意味を、見出せたからこそなのか、なんか、こう、身に迫るものがあったというか、なんか、んー、、、こう、自分が、その場所に立ってい 立っていてもというか、居ても大丈夫、だっていうことがなんか、分かったというかなんかそれが、なんか、その場からは疎外されていないような気がして、それが、ま単純にその悪い気持ちはしなかったというか、むしろいい気持ちでそこに居られたっていうのはすごく印象的、です。

ここでは、演技を自由に任されていた状態で、セリフを読み上げながらかざぐるまを手に取るのと、マグカップを手に取るのとでは、〈しっくり〉感や〈納得〉感がまったく違っていた様子が語られています。

ここで、私たちがもっとも関心があるのは、マグカップを手に取った場合には〈居ても大丈夫、だっていうことがなんか、分かった〉という点です。この章では、【居ても大丈夫】を重要概念として取り上げ、整理してみます。

**重要概念2**

【居ても大丈夫】
 〈その場からは疎外されていない気が〉する、〈いい気持ちでそこに居られた〉ということ。〈納得がいく〉こと、〈(マグカップを手に取ることが)自分にとって意味のあること〉だと感じられることによって得られる感覚。

*********

ここで注目したいのは、【居ても大丈夫】の必要条件となっている〈納得がいく〉という感覚です。語りのなかでは、言い換えとして〈(マグカップを手に取ることが)自分にとって意味のあること〉だと感じられること、だったり、〈セリフを言っててそのセリフに結びつく〉という表現が登場しています。

ただ、最初に述べた通り、この文章のメインゴールは、〈居られない〉の構造を明らかにすることと、オンラインで〈居られる〉ための施策を提案すること、という2点にあります。

【居ても大丈夫】について整理してみたとはいえ、現時点での分析は、オンラインで〈居られる〉ための施策を提案できるほど詳細ではありません。

したがって、次の章では、〈居られる〉の必要条件である〈納得がいく〉についてより詳しく分析を進めてみましょう。

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3. 【文脈にぴったりハマった感じ】 が納得を与える

この語りでは、筆者が〈納得がいく〉についてさらにつっこんで質問をした際のものです。のちに整理しますが、ここでは【文脈にぴったりハマった感じ】という重要な概念が登場します。

「〈文脈〉とは、なんなのか?」
「〈ハマった感じ〉とは、何がハマっているのか?」

そのような問いを頭に置きつつ読んでいただけると良いかと思います。

筆者:かざぐるまを触ってもしっくりこなかったのに、マグカップを触るとなんか、納得がいったっていう話があったんですけど、それってなんか、なんでかざぐるまではしっくりこなかったんだろうって聞きたくて。
Bさん:はい、えーっとそうですね、そのかざぐるまがしっくりこなくてマグカップが納得いったのは、えーっと、んー、こうぱっと思ったのは、こう、マグカップが文脈にぴったりハマった感じがしたからかなと思っていて、なんか私の中ではマグカップが文脈にしっくりあう、という感覚だったっていうところが、多分、えーっと理由のまあ結構核に近いところかなって思ってるんですけど、えっとーかざぐるまの方は本当に思いつきで手にとって回すっていうことを、したんですけど、あまりにもこう思いつきだったので、なんだろうな、こう、その、例えばそこで今言っているセリフだったりとか、えー今自分が置かれた状況というかその場所?に、あまりフィットしなかったというか、結構、そのかざぐるまを手にとって回すことがその、場においてちょっと浮いてしまった感じがあるのかなぁって思っていて。それと対照的に、マグカップの方はえっとーその言っているセリフの中に、えっとーあえっとー言っているセリフの内容が、こう1人の女性の、なんか、1人の女性の今そこにいないけど、その人をこう追い求めてるような内容のセリフだったんですけど、そのマグカップの丸みだったりとか表面の質感だったりとかが、すごくこう、女性的に映ったというか、女性的に捉えられるものとして私の目には見えて、そのなんか、女性的な性質として捉えられるものをその、なんか、そのセリフの中の女性と重ね合わせる、言い換えるとその、なんだろな、マグカップをこのなんか、セリフという文脈にこう当てはめるっていうこと、がまたまたまですけどうまくいったから、こそ、納得がいった、のかなっていうふうに思います。
で、それを踏まえて立っていられるとかいられないっていうことを考えてみたときに、かなりその、えー今自分が置かれている場、場所ば、場だったりそこにある文脈みたいなところ、文脈だったり場だったり、に、こう、ハマれるかぴったりと、えーなんていうんだろうな、そこにこう、しっくりくる形でいられるか、という、ところで、しっくりくるなって思えるのであれば立っていられるし、しっくりこないとこう、なんていうんでしょう、なんで今この場にいるんだろうっていうようななんか疑問というか、意味みたいなものを考えてしまったりして、居られない、その場に立っていられないっていうふうになるのかなって思って、います。
(中略)
筆者:(文脈という言葉が出てきたけど)なんか例えば、その演劇の場で言ったときにその、マグカップとかざぐるまの時は具体的にどういうものだった?文脈っていうのは。
Bさん:えーっと、その時の文脈はえっとーそうですね、多分この時は私がセリフを喋っていて、いたので、ここにおける文脈は多分主にセリフのこととして、多分私は文脈って言ってたんですけど、えっとーそのセリフは、(中略)(筆者注:この場面は、ある廃墟の一室。主人公は部屋を物色するうちにその部屋には女性が住んでいたことを知る。部屋には女性の生活がうかがえる痕跡がいくつも残されている。)(その痕跡に)見たり触れたりする中で、えっとー、その女性に手紙を書いてみようと決意して終わるっていう、セリフだったと思います。確か。
筆者:あーなるほど、それが文脈。
Bさん:はい、そうですね。で見たり触れたりして、こう決意するっていうところに至るまで、に、そのなんていうんでしょう、んーただこうものを見るだけでは終わらないし終われないというか、という設定がなされたシーンとしてあって、えーっと、そのなんだろう、決意に辿りつかないといけないので、なんかそこにたどり着くためには、なんかやっぱりその、ものを見たり触ったりしてというところからの決意なので、見たり触ったりすることっていうのがその決意の、をこう、決意をするための手助けになってくれるものとして存在していて、その手助け、の、ため、ため?ため、ため、の材料としてマグカップがぴったりそこにハマった、んだと思います。

〈マグカップが納得いったのは、(中略)こう、マグカップが文脈にぴったりハマった感じがしたからかなと思っていて〉と語られているように、【文脈にぴったりハマった感じ】がしたことで〈納得がい〉ったことがわかります。

ここでは、重要概念である【文脈にぴったりハマった感じ】について、具体的に、その感覚が得られるまでのプロセスを、実際のセリフの内容とともに整理してみましょう。

**重要概念3**

【文脈にぴったりハマった感じ】
 〈文脈にしっくりあう、という感覚〉とも語られる概念。この感覚は、4つのステップによって得られる。これらを具体的な語りを例に挙げつつ整理すると、
 ①文脈があること

   例:〈その人(女性)を追い求めてるような内容のセリフ〉がある
 ②物があること
   例:〈マグカップの丸みだったりとか表面の質感だったり〉がある
 ③私の目に、〈捉え〉が見えること
   例:〈(マグカップが)女性的に捉えられるものとして〉見える
 ④〈捉え〉と文脈のなかのイメージを重ね合わせる
   例:そういう〈捉え〉を〈セリフの中の女性と重ね合わせる〉
となります。

また、重要な点として、

まず、〈決意するっていうところに至るまで、に、(中略)ただこうものを見るだけでは終わらないし終われない〉とあるように、の段階では、文脈に何かしらの飛躍がある状態であり、〈(決意の)手助け、の、ため、ため?ため、ため、の材料としてマグカップがぴったりそこにハマった〉とあるように、での飛躍はにおいて解消されていることがわかる。

さらに、〈たまたまですけどうまくいったから、こそ、納得がいった〉とあるように、【文脈にぴったりハマった感じ】は完璧に制御できるというものではなく、むしろ偶発的なものである。

*********

ここで注目すべきなのは、の文脈の飛躍は、決してで挙げられているような物自体が埋めるわけではないという点です。

冷静に考えて、マグカップがBさんにとって〈女性に手紙を書いてみよう〉と決意をする〈手助け〉となる、という因果関係は非常におかしなものです。しかし、Bさんがこのときマグカップを通して経験しているのは、そういう因果関係ではありません。

Bさんは、マグカップ本体ではなく、あくまで〈(マグカップが)女性的に捉えられるものとして〉見えるという〈捉え〉の飛躍にあてがい、そして飛躍を解消する〈手助け〉としているのです。このとき、マグカップ本体は実は〈手助けのための材料〉に過ぎません。

それでは、〈しっくりはこなかった〉とされていた、かざぐるまを手に取ってみた場合の例を、のステップで理解してみようとするとどうなるでしょうか?少なくともの文脈との物、についてはある状態ですから、以下のようになるはずです。

ーー具体例1ーー

かざぐるまが〈しっくりはこなかった〉
 ①文脈があること
   → マグカップの例と同様のセリフがある
 ②物があること
   → かざぐるま
 ③私の目に、〈捉え〉が見えること
   → ×
 ④〈捉え〉と文脈のなかのイメージを重ね合わせる
   → 〈あまりフィットしなかった〉

ーーーーーーーー

以上の整理より、かざぐるまが〈しっくりはこなかった〉のは、③私の目に、〈捉え〉が見えること がうまくいっていなかったことに原因があることがわかります。これはつまり、かざぐるまから得られる〈捉え〉が、〈女性に手紙を書いてみよう〉と決意をする〈手助け〉とならなかった、飛躍の解消につながらなかった、ということです。

ここで今一度、Bさんがマグカップの手助けをどのように経験していたのか、文章でまとめてみます。

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Bさんは、〈捉え〉を用いて文脈の飛躍を解消するために、その〈手助け〉の材料となることを期待して、かざぐるまやマグカップを見たり触ったりした。そして、その飛躍の解消がうまくいった状態が、【文脈にぴったりハマった感じ】である。

****

思い出してみると、【文脈にぴったりハマった感じ】が、〈納得がいく〉感じを与え、そして結果的に、【居ても大丈夫】という感覚を生む、ということはこれまでの章で取り上げてきたことです。

つまり、【文脈にぴったりハマった感じ】を感じるとき、Bさんは同時に【居ても大丈夫】という感覚を抱いているといえます。

実際、【文脈にぴったりハマった感じ】と対照的な概念である〈しっくりはこなかった〉という感覚を感じているときには、〈なんで今この場にいるんだろうっていうようななんか疑問というか、意味みたいなものを考えてしまったりして、居られない、その場に立っていられない〉とされています。これは、【居ても大丈夫】とは対極にある感覚です。


ここまで私たちは「〈居られる〉とは具体的にどういうことなんだ?」という問いの答えを明らかにするため、【居ても大丈夫】や〈納得がいく〉ということがどういうことなのか、整理してきました。

これで、ようやく結論が出ます。【居ても大丈夫】という感覚、すなわち〈居られる〉という感覚が生まれるためには、【文脈にぴったりハマった感じ】の4ステップが必要なのです。

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4. オフラインにおける〈居られなさ〉について

この文章では、オンラインにおける〈居られなさ〉を出発点としてここまで考察を進めてきました。しかし、当然ながら〈居られなさ〉はオンラインだけのものではありません。最後に紹介するのは、Bさんのオフラインにおける〈居られなさ〉についての語りです。

Bさん:中学生の時に、えっとー、一時期5人くらいでこう、仲良くしてた時期があって、めっちゃ奇数なんですよ5って。結構こう、2人1組になって〜 ってタイミングって中学生って結構多い気がしてて、例えば体育でバドミントンやるよってなったらまあ2人1組なって〜 じゃないですか。そうなると、5だとこう、私があぶれるんですよね。(中略)まあ別に私半分はあぶれてもいいと思ってるからいいやと思って、全然あぶれはするんですけど。なんか、でもやっぱりあぶーれたらあぶれたでまあなんか「居られないな」っていうのは思いますね。なんか、まあ2人1組になって〜 とかだったら、もう2人1組は私以外のところで成立しているので、なんかそこになにか押し掛けたりすることは、なんか邪魔にもなるし。なんかそういう時って、まあなんか別に何か悪いことをした、とかであぶれてるわけじゃないんですけど、なんか変な気持ちになりますね。なんかいたたまれないというか、「なんで私は今ここにいるんだろう」みたいな、なんか2人1組とかだったらその相手に必要とされているからこういられる感じがあると思うんですけど、お互いに相手がいることで2人1組になれるので2人1組になった場合はお互いに役割がある状態だと思うんですけど、あぶれた状態ってそういう役割とかがないので、なんか変に、「いる必要ないのになんでここにいるんだろう」っていう風に、思っちゃうんですねたぶん。なんか「ここにいる必要ないじゃん」って思ってしまうというか、なんか、いる必然性を自分で見出せないというか、なんかこう、その1人あぶれた状態をなんか、適切にこう、意味を見いだせないんですよねたぶん。だからなんか、「なんでいなくてもいいはずなのにいなきゃいけないんだろう」って思うと、すごく、なんか透明になりたかったですね、そういうときは。なんか、体が邪魔だなって思ってました。
筆者:なるほどね。
Bさん:なんかこう、体があることでここに今いるっていうことをもう感じざるをえないので、なんか、透明になればいいとか、体がなくなればいいとか、そういうことは思った気がしますね。

ここで注目すべきは、【体がなくなればいい】という語りです。唐突に出てきたように思える概念ですが、一度整理してみましょう。

**重要概念4**

【体がなくなればいい】
 〈体が邪魔だな〉や〈透明になればいい〉と同様の概念。【体がなくなればいい】と感じるに至るまでの流れは、
 ・〈あぶれる〉と、
 ・〈役割とかがないので〉
 ・(自分の状態に)〈適切に、意味を見いだせな〉くなってしまう。
 一方で、
 ・〈体があることでここに今いるっていうことを感じざるをえないので〉
 ・もはや【体がなくなればいい】
となる。

********

ここで、3章を思い出しましょう。3章では、かざぐるまが〈しっくりはこなかった〉という事例に関して〈なんで今この場にいるんだろうっていうようななんか疑問というか、意味みたいなものを考えてしまったりして、居られない、その場に立っていられない〉という語りを紹介しました。

そして今、【体がなくなればいい】の3段階目〈意味を見いだせない〉は、かざぐるまの事例と同一の構造を持ちます。つまり、Bさんにとって〈役割とかがな〉く、自分の状態に〈意味を見いだせない〉ことは、〈居られなさ〉に直結するのです。

それでは、どうして〈居られなさ〉から【体がなくなればいい】という思いが生まれるのでしょうか?

その理由は、この事例を【文脈にぴったりハマった感じ】の4ステップに当てはめて考えるとわかります。

**重要概念4'**

【体がなくなればいい】
 ①文脈があること
   → 役割がない
 ②物があること
   → 
 ③私の目に、〈捉え〉が見えること
   → 
 ④〈捉え〉と文脈のなかのイメージを重ね合わせる
   → 

********

今回の場合は、〈役割とかがない〉ことによってのステップが全てうまくいっていない状況になっています。つまり、このとき、Bさんは〈居られる〉とはまさに正反対の状態にあるのです。それで、〈居られる〉を目指すよりも、「居ない」ことを目指す方が早いように思えているのです。

確かに、この極限的に〈居られない〉状態は、Bさんにとってもはや「居ない」と紙一重の差しかないのでしょう。しかし、紙一重と言えども、Bさんは「居ない」を実際に実行することはできません。その理由は、〈体があることでここに今いるっていうことをもう感じざるをえない〉という語りが示唆しているように、まさに、Bさんには〈体がある〉からです。

したがって、〈居られない〉ことと「居ない」ことは紙一重の差でありながら、その間には〈体〉というものが大きく横たわっているのです。

そして、これは同時に、〈居られる〉ためには①文脈があることの前に⓪体があることという段階があることを示しています。⓪体があることなくして、〈居られる〉ことはできません。

つまり、⓪体があることは、〈居られる〉ためのもっとも根本的な概念なのです。

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5. オンラインにおける〈居られなさ〉の再考察と、提案

ここまで、主に演技における【文脈にぴったりハマった感じ】の分析を通して、〈居られる〉ためにはどのようなステップが必要か、ということを分析してきました。

結論として、前章で⓪体があることが加わった結果、〈居られる〉と感じられるためには合計5つのステップが必要であるということがわかりました。


思い返してみると、1章では具体的に【画面の中にいなきゃいけないっていうのが辛い】という概念を挙げ、オンラインにおける〈居られなさ〉について取り上げました。

ここでもう一度だけ、1章を整理した時点では登場していなかった5つのステップに照らし合わせて、【画面の中にいなきゃいけないっていうのが辛い】を整理してみましょう。

**重要概念1'**

【画面の中にいなきゃいけないっていうのが辛い】
 ⓪体があること
   → 外の、画面を見ている私が存在すること
 ①文脈があること
   → 
 ②物があること
   → 画面の中の自分
 ③私の目に、〈捉え〉が見えること
   → 
 ④〈捉え〉と文脈のなかのイメージを重ね合わせる
   → 変によくあろう(よく映ろう)としてしまう

*********

ここで特異的な点は、②物があることに〈画面の中の自分〉が当てはめられていることです。〈すごく自分の状況に目がいっちゃう〉という語りから、【画面の中にいなきゃいけないっていうのが辛い】と感じる状況において、〈画面の中の自分〉がBさんの見る対象(物)となっていることは明らかです。

では、〈画面の中の自分〉が見る対象(物)となったとき、Bさんはそこに何を〈捉え〉ているのでしょうか?

ここで、参考となる短い語りを紹介しましょう。

Bさん:あ、なんか自意識みたいな、のに目がいっている時、って、その自分の理想とする状況があって、なんか、それに、こう、近づけようと、し続けるんですけど、なんかそれをすることにすごい無理があるというか、そもそもすごい理想が無理な形だったりとか、することがあると思ってるんですけど、なんかその理想を叶えようとすることの無理さみたいな、ところってもう拭えない気がしていて、

〈よくあろう(よく映ろう)としてしまう〉という語りからも推察することができるように、Bさんは〈画面の中の自分〉に理想の自分を〈捉え〉ているのです。

しかし、そこには〈その理想を叶えようとすることの無理さ〉という矛盾を内包しています。だからこそ、Bさんは〈画面の中の自分〉を前にして、理想の自分を〈捉え〉続け、また〈変によくあろう(よく映ろう)としてしまう〉ことをし続けなければなりません。

つまり、画面の中の自分の様子を目の前で見させられ続けることは、Bさんにとって〈捉え〉と〈よくあろう〉とすることの無限サイクルを引き起こしていることになり、その結果、Bさんは〈疲れる〉という状態に陥っているのです。

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それでは、最後に、先ほど分析した第1章の内容と〈居られる〉ための5ステップとをもとに、オンラインにおいて〈居られる〉場を作るための提案をいくつか箇条書きにして終わりにします。

・オンラインミーティングでは、カメラをオフにする。
・カメラガオンであっても、自分を映さなくてもいいようにする。
・個人個人に役割を割り振り、それぞれが何者であるかを明確にしておく。
・〈捉え〉を誘発させるために、個人個人が情報に自由にアプローチできるようにしておく(例:議事録を取るなど)。
・多様な〈捉え〉を促すために、情報の豊富さを担保する(例:音声、図解、言語など)。



おわりに

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

最後に、注意事項と感謝を申し上げます。このリサーチはBさんの〈居られる〉ことに関する価値観・経験の現象学的記述を目的としており、居場所論に対する体系的な知見を与えようとするものではありません。むしろ、今回紹介したBさんの語りはヒアリング時点において筆者との関係の間で生まれたものであり、Bさん自身においても今後変化しうるものです。加えて、このリサーチは、決してBさん自身の価値観を単純化することを目的としていません。もしこれらの語りや分析が単純なものとして受け止められたなら、それはひとえに筆者の力不足のためであることをご理解ください。

最後に、協力してくれたBさんと、一緒に分析をしてくれた西川くん、そして私に現象学的分析を教えてくださってるべとりんさんにはとても感謝しています。ありがとうございます。


次の記事は、8月6日に公開予定です。また、1ヶ月後にごゆるりと読んでいただければと思います。

ここまでお読みいただきありがとうございました。


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